ヌサカーンの診療所は、広い。 もう少し正確に言うならば、ヌサカーンの診療所が入っている建物は、とにかく異様にだだっ広い。 診療所として使っているのは、建物の入口近くの極一部のみである。待合・併設する事務室兼調剤室・診察室・手術室・そして病室が2部屋のみ。この病室は経過を観察したい患者が居た時だけ使用される。入院は原則として受け入れていない。理由は、「面倒臭い」からだそうだ。 診療所の奥に、ヌサカーンが居住に使用している部屋が幾つか。 それから、一般的な図書館など遥かに凌駕する膨大な量の書籍を納めた広大な書庫。 そして、何処まで続いているのか見当もつかない廊下が数本。 明かりがとうに消え果てた廊下は、その果てすら見えない。 自然洞窟まで続いている・という噂もあるが、定かでは無い。 そもそも、この建物がどれだけの面積を持つのか、それ自体が不明なのである。 書庫からして、広大な上に天井まで届くような書棚が迷路の様に林立しているため、その広さを計測することが出来ないのだ。 更にはその書庫に12の小部屋が隣接していて、それらがそれぞれに広さも形も違う上、中には上階や階下に続いている物さえあるのだ。こうなってくるともう、内部からその全体図を量る事は不可能だと言える。 そして、外部からの判別は、もっと不可能だった。 何故なら、この建物を含む区画の上に、新市街が作られているからである。 書庫の一角に佇むヌサカーンの耳に、この診療所では滅多に聞く事の無い慌ただしい足音が響いて来た。 手にしていた本から顔を上げて、その足音の方へと視線を向ける。 程なく、その視界に、予想通りルージュの姿が飛び込んで来た。 「先生ッッ!!ブルー、知らない?!!」 自分を見つけるなり噛み付くような勢いで叫ぶルージュに、ヌサカーンは怪訝そうに問い返す。 「一緒に居たのではなかったのかね?」 「ちょっと目を離した隙に居なくなっちゃったんだよ!もー、絶対に、一緒に帰るからねって、あれだけ念を押しておいたのにー!!」 拳を固めてルージュが叫ぶ。 が、ヌサカーンにはその真理が少し理解出来ない様だ。 「別々に帰ると、何か不都合でもあるのか?」 「タイムバーゲン!!お砂糖がお1人様2パック限定で安売りなの!ブルーと一緒に行けば、4パック買えるんだもん!!」 「……砂糖をそんなに一気に買う必要はないだろう?」 「何、言ってるの。こーゆう時に倹約しないとダメなんだよ?」 「………そうなのか?」 「そうだよー!生活の知恵!常識でしょ?」 「…………そうか」 一体、誰の受け売りだ・と疑問にも思える科白を力説され、思わず脱力する。 そんな事はお構い無しにルージュはヌサカーンに詰め寄った。 「先生も探してよ。本なんて何時でも読めるでしょ?自分のなんだから」 「何故、私が」 「だって先生んちが広すぎるから悪いんじゃない。こんな迷宮の館にしちゃうから、ブルーがどっか行っちゃうんだよ?だから、責任を持って探すの」 思考停止する程の強引な理屈を突きつけられて、一瞬絶句する。 そんなヌサカーンを放置して、ルージュはまた走り出した。ちゃんと探してよー?と叫ぶ声が肩越しに響く。 嵐の様に去って行った双子の片割れを見送りながら、ヌサカーンは暫くその場に佇んでいたが。 その足音とブルーを呼ぶ声が殆ど聞こえなくなってから、ようやくゆっくりと手にしていた本を閉じた。 「…………あれは、もう少し落ち着いて行動出来んものか」 半ば呆然と呟いた声は、書棚に弾かれて床に落ちただけだった。 本を書棚に戻すと、ヌサカーンは迷いの無い足取りで歩き出した。 殆ど感のみだが、大体、居場所の見当はつく。 そもそも、ブルーが足を運ぶ場所自体が、それ程多い訳ではないのだから。 隣接する小部屋の1つに入り、その隅にある細い階段へと向う。 最初にブルーがここを昇った先に居るのを見つけた時は、ヌサカーン本人ですら存在を忘れかけていた階段をよくぞ発見したものだ、と感心してしまった。 人1人ようやく通れる細い階段は天井の小さな入口へと続いている。 そのまま使っていない部屋を幾つかと屋根裏を通り、建物の上へと抜けていた。 そこは、この建物の上部が露出してる、数少ない場所だった。 この建物自体は、裏通りと呼ばれる場所に建っている。裏通りは旧市街区の一つになる。 そしてその旧市街の上には新市街が作られていた。 <クーロン>では、古い街の上に新しい街が作られているのである。 建物そのものも、複雑怪奇な作りをしているものが殆どだった。 普通に建てられても、いつの間にか隣接する建物との間に橋が渡され隙間が塞がれて一つになっていたり、2つの建物を取り込む様にして新しい建物が作られたりもしていた。 同様に、道だった筈の場所に建物が作られている事もあるのだ。 2年前に作られた地図は当てにならない・と言われる程、街の変貌は激しい。 更に、<クーロン>はリージョン質量が小規模な方になる。 そのため、都市を拡張する為には、古い街並を基盤にしてその上に新しい街を作る、という手段を取らざるを得なかったのだ。 最も多く重開発されている区域では都市が5階層にも及んでいると言う。 旧市街に建つヌサカーンの診療所の上にも、新市街が作られていた。 建物は既に新市街の基盤となっており、その全体像を確認する事は不可能だった。 それでもこの建物は新市街の外れに当る為、まだ上に都市が作られていない場所も若干ある。 ヌサカーンが辿り着いたのは、そんな場所の1つだった。 僅かな風が、少しの湿り気を含んで吹き抜けて行った。 市街と市街の狭間に当たるここは、<クーロン>では珍しく風を感じる事が出来る。 さして広くもない空間を見渡せば、直ぐに探している人物は見つかった。 建物の角に立ち、空を見上げている。 束ねた長い金糸が僅かな風に揺れた。 佇むブルーの側に真直ぐに歩み寄る。 その気配を感じても振り返ろうとせずに、ブルーは空を見つめていた。 ヌサカーンは傍らに立ち、まずその横顔へと視線を向ける。 空を見上げたまま、ブルーは口を開いた。 「何故、放置している?」 唐突な問いに眉を寄せ、ヌサカーンは首を傾げた。 身動きしないブルーの視線を追って、納得した様に頷く。 視線が向う先には、街灯りの途切れた一角。 旧市街に分類される区域の中で、「完全立入禁止区域」となっている場所であった。 <クーロン>の全面積の内で、居住可能とされている地区は7割弱である。 残りの3割強の内、3分の2近くが居住禁止区域になる。ここは「住む事は出来ないが立ち入りは自由」とされている場所である。 そして、残された場所は完全立入禁止区域となっている。つまり「住む事は勿論、入る事も不可」な場所なのだ。 理由は「余りにも古すぎて、いつ倒壊するか予測出来ないため」であった。 都市が重なり過ぎて、これ以上の開発が出来なくなった区域なのである。 「いずれ倒壊する。わざわざ労力をかける必要もないからだろう」 そう答えたが納得出来なかったらしく、ブルーは腕組みをして首を捻る。 「さっさと取り壊して、新しい街を作った方が早いんじゃないのか?」 その言葉にヌサカーンが小さく笑った。 ブルーがむっとした顔で振り返る。 その剣呑な視線を笑みで流して、ヌサカーンは口を開く。 「68区は都市が3階層に及んでいる。それら全てを解体するだけでも相当な手間だと思わんかね?」 そう言われてブルーは納得したらしく、そうか・と呟くとまた視線を空へと向けた。 ゆっくりと<クーロン>の空を見渡している。 ヌサカーンはその横顔を面白そうに見つめていた。 視線より迫り上がる都市の明かりは、そのまま緩やかな曲線を描いて頭上へと続いている。 明滅し、所によっては弱まり、時折ぽっかりと虚ろな空白を見せながらも、途絶える事は無い。 太陽も無く星も無い。月も昇らない空に、代わりに煌めく天上の都市の灯火。 今日は靄(もや)に覆われ見えないが、それでも確かに都市の息吹は瞬いている。 空無き空に暮らすもの達。 地平と天空の境の無いこのリージョンで。 歴史の始まりすら定かではないこのリージョンで。 彼らには、今、暮らしている現実こそが、揺るぎのない事実。 だからこそ。 彼らは拘らない。 自分達の暮らすリージョンの特異性を気にも止めず。 事実を事実として、ただ有りの侭に受け入れて暮らしている。 不可思議など現実の前にはただの戯言に過ぎないのだから。 天上の都市に暮らすもの達の息吹が柔らかく吹き下ろして行った。 ブルーがふと、その視線を降ろした。 その動きに合わせて、ヌサカーンも視線を動かす。 何事かを考え込む様な仕草。 ゆっくりとした風が通り過ぎていくのを見送って。 ブルーはヌサカーンへと視線を転じた。 静かな光を湛えた双瞳が深く澄んで、真直ぐに見つめてきた。 視線を外さずに、唇が開く。 「……訊きたいんだが、どうしてお前は」 そう言葉を紡ぎかけた、その時。 「あーーーッ!!!外にも居ないーーーーッッ!!!!」 いきなり響き渡った絶叫に、ブルーは身を竦ませてから弾かれた様に振り返った。 ヌサカーンも驚きに目を見はって、次いで同じ方向へと振り返る。 若干ずれて振り返った2人の視界に声の主の姿が入る。 あのままブルーを捜して、建物の外まで駆け出して来た、ルージュの姿が。 ブルーは呆れ返って肩を落とし。 ヌサカーンは小さく吹き出していた。 |
……2話で終わりませんでした。 というか、長過ぎたので、2話目を2つに分けました。 おかしいなぁ。こんな筈では。あれ? 2話目がちょっと短くなりましたけど、ま、ご愛嬌。 捏造しまくりの<クーロン>設定。 ヌサカーン先生の診療所は、絶対に街の下に続いていると思います。 とにかく異様にだだっ広い。 物取り目当てで入った泥棒が、散々迷ったあげく餓死寸前で発見された・という噂もあります。 真相は先生しか知りません。……恐ろしい。 完全立入禁止区域は、入っても別に罰金も罰則もありません。 但し、そこで倒壊に巻き込まれても、<クーロン>当局では一切の賠償もしませんし、 救助すら行いません・と明文化されてます。看板もあちこちに立ってます。 実際、場所によっては立っただけで崩れる可能性もあるのです。 そんな所に入る方が悪い・と言う事なのでしょう。 しかし、私の書くヌサカーンは、どうにも双子に弱いような気がします。 どうしてだろう……もうちょっと凛々しい先生が書きたいのに。 2007.9.9 |