「ヘンな空」 本当に唐突に、ポツリと、空を見上げてルージュが呟く。 その微かで消えそうな声は、それでも確かに、少し先を行くブルーに届いた様だ。 ブルーが怪訝そうに空を見上げる。頭上に広がる<クーロン>の暗い空を。 「いつも通りだと思うが」 そう返すと、ルージュはあからさまに驚いて振り返った。 それもそうだろう。いつもならこんな呟きはあっさりと無視されてしまうのに。 ルージュの驚き顔を気に留めずに、ブルーは怪訝そうに空を見上げている。 「何処か違うか?」 「んーと、そうじゃなくてね」 問い返されて、ルージュは少し慌てて返事をする。ブルーが視線を寄越した。 「その『いつも』がヘンでしょ」 ルージュの言葉にブルーが眉を寄せる。 珍しく鈍い反応に、心無しかルージュの声が大きくなった。 「だって、ここ、空が無いんだよ?」 両手を広げ、思わず力説したルージュにブルーは軽く目を見開き。 そして、改めて空を見上げた。 薄く暗い靄(もや)のかかったような、<クーロン>独特の空。 厳密に言えば、「空であるべき空間」を。 <クーロン>には空が無い。 何故なら、本来、空があるべき場所にまで都市が広がっているから。 リージョンは大きく分けて3つの要素から構成される。 混沌の空間からリージョンを隔てている外壁とも言うべき『シェル』。 そのシェルの内部に広がる空間である『ボイド』。 そして、リージョンの心臓そのものとも言える『コア』。 この3つから構成される存在をリージョン、正式にはリージョンスフィアと呼ぶ。 人々が生活してる場所は、この内のボイドである。 リージョンスフィアは微弱な重力しか持たない。 ボイド内部の重力は全て、リージョン界の中心であるセンターホールにて発生したものである。 そのため、ほぼ全てのボイドは、センターホール側に地面がありその上に空が広がる構造をしている。 <クーロン>は唯一、例外的な構造をしていた。 全リージョンの中で<クーロン>だけが、シェル内壁に沿うようにして都市が続いている。 その都市は内壁のほぼ全域を埋め尽くしている。<クーロン>で都市の無い場所は、シップが通過するための出入り口であるサラフェアと呼ばれる箇所のみだ。このサラフェアもまた<クーロン>固有の物である。 そして、<クーロン>では重力は常に足元、つまり、シェルの方へと働いている。 これもまた<クーロン>のみに見られる現象である。 何故このリージョンスフィアだけが異なる重力法則を持つのかは、未だに解明されていない。 また、何故<クーロン>だけが、高圧エネルギー流体であるシェルに、サラフェアを固定する事が出来たのかも不明である。 多くの科学者にとって<クーロン>は、謎の多い探究心をそそられるリージョンであった。 ただし、<クーロン>に暮らす者達には、それは然したる問題ではなかった。 当然だろう。彼らにとって、そこがどれだけ科学的に謎の多い土地であっても、変わらず生活出来ればそれで良いのだから。 見上げた空は暗い靄(もや)のようなものがかかっていて、その向こうは良く見えない。 <クーロン>の空(厳密にはボイドの中心付近)は常に靄がかかっている。薄くなる事はあっても晴れる事はまずない。 靄が薄れた日にはその向こうに、頭上に広がる都市の明かりが星の様に見える。 今日はその光は見えなかったが。 「……空、か」 軽く首を傾げてブルーはそう呟く。 「空が無い」と言うなら、そうかもしれない。都市により全てを埋め尽くされたリージョンに空は無い・と言うのならば、確かにその通りだろう。 けれど。 「別に構わないと思うが」 「はい?!」 ブルーがあっさりとそう返すと、ルージュは唖然とした顔をした。 それを一瞥して、ブルーはまた歩き始める。肩に背負った大きな鞄を抱え直した。 ほぼ全てが都市で覆われた<クーロン>に太陽光は殆ど差さない。街灯のみで照らされた薄暗い通りにブルーの淀みない足音が響く。 遠ざかるブルーを少しの間、呆然と見送ってから、ルージュは慌てて後を追った。手にしたこれまた大きな鞄を、両手で持ち上げる。 「ちょっと!待ってよ、ブルー!」 「……さっさとしろ。置いて行くぞ」 「重たいんだよ、コレ!!」 「俺のと同じだろうが」 そう言い捨ててブルーが裏通りへと続く長い階段を降りて行く。ルージュは追いすがりながら、尚も文句を言っている。 「そもそもブルーが先生の所から本を借りっぱなしにしてるから、こんなにたくさん溜るんじゃない!」 「…………取りに来ない奴が悪い」 「うっわー。借りておいて何て言い草。……って、話も逸れてるし!」 「そうだったか?」 「そうだよ!なんで空が無くても構わないのさ!」 階段を下り切ってブルーが足を止めた。駆け下りて来たルージュがようやくその横に並ぶ。よいしょ、と鞄を抱え直した。 裏通りは更に一層薄暗い。街灯の明かりが消えても修理されないからだ。時折、住人達が自力で修理する事もあるが、その方が稀である。明かりが消えたまま放置されている街灯の方が圧倒的に多い。 その薄暗い裏通りにルージュが大きく息を吐く音が反響する。 ブルーは眉間に皺を寄せて少し考えていたが、怪訝そうに口を開いた。 「そもそもどうして空が無い事が問題になる?」 「はぁ?だって、おかしいじゃない。普通、地面の上には空があるもんでしょ?」 「まあ、一般的には、な」 「そうでしょ?なのに、ここは違うんだよ?どう考えたって変だよ」 ルージュが口を尖らせてそう言う。 その言葉にブルーは首を傾げて。 そして、言った。 「奇妙だからと言って、別に困る事でもないだろう?」 ある意味、真理。 故に、ルージュの顎が、がこん・と落ちた。 それを気にも止めずにブルーが尋ね返す。 「空が無いと何か困るのか?」 「え?ええ・と、それは…………」 口ごもってルージュは思わず天を仰いだ。 困るのか・と問われれば、確かに別に困りはしない。 <クーロン>の気候は安定していて、気温の変化も特にない。雨もきちんと降る。冷える事が無いから雪にはならないけれど、そういう気候のリージョンは他にもあるからそれも問題にはならない。 空が無いと言っても、要するように青空や星空が無い・と言う事であって、空である空間が全く無い・という意味では無い。<クーロン>における『空』とはボイドの中心部分なのだから。 じゃあ、一体、何が困るのかと改めて問われると、返答に詰まる。 口をパクパクと開閉させるルージュを暫く眺めてから、ブルーは先に行くぞ・と一言告げて歩き出した。 1拍の間を置いて、ルージュが大慌てでその後を追う。 薄暗い裏通りに微妙に揃わない2つの足音と、ルージュの声が響いた。 「だから、待っててば!もー!」 「……俺はさっさとこれを置いて帰りたいんだ」 鞄を示してから振り返りもせずにそう言って、ブルーは歩き続ける。 その横に何とか走って追いついて、息を整えてからルージュは声をあげた。 「そうだ、太陽!ここ、太陽が無いから直射日光が当らないじゃない!植物が困る!」 「その分、間接光や微弱光で育つ種類が進化したから、問題にはならない」 ようやく出した答えはあっさり否定された。 歩きながら、懸命にルージュは食い下がる。 「じゃ、じゃあ、洗濯物が乾かない!」 「……家に何故、乾燥機があるんだ?」 「う……ッ、え、と、…………電気代。かさむヨ?」 「実質、どれぐらい増えている?」 「………………ちょびっと」 ルージュの声が小さくなる。確かに、さして増える訳ではないのだ。そもそも、安定したエネルギー供給システムを持つこの世界において、電気代というもの自体が微々たる金額に過ぎなかったし。 鞄を抱えて口ごもるルージュをちらりと見て、ブルーは口を開いた。 「確かに空が無い事は特殊だが、だからと言って問題は無いだろう?他のリージョンには空があるが、ここには無い。それだけの事だ」 淡々と言われて、ルージュは言葉に詰まる。 そうだけど、と口ごもっている内に、またブルーから数歩遅れてしまう。 そのまま後を追いながら、少しつまらなそうに口を開いた。 「……だけどさ。やっぱり気になるじゃない?どうして<クーロン>だけが特別なのか・って」 ルージュはどうしてもそこが疑問だった。何故、<クーロン>だけが他のリージョンと異なるのか。 他のリージョンには無い特性。<クーロン>だけが持ち得た特異性。 もうかなりの間、学会を湧かせている議題の一つだ。 まぁ、確かに、科学者達ですら未だに解明出来ていない謎なのだから、それを自分が解き明かせるとは思っていない。 それでも、疑問に思う事は別に構わないと思う。 思う……けれども。 俯いてしまう。 自分の爪先を見つめながら、多少の不満と、それ以上の後悔にも似た気持ちが込み上げて来るのを感じる。 馬鹿な事を口走っている・と思われただろうか。 けれどルージュにしてみれば、自分が疑問に思っている事を、どうしてブルーは何とも思わないのか、その方が不思議だった。 だから、問題提議してみたのだけれど。 ……こうもあっさりと流されるとは思いもしなかった。 もう少し、反応があるかと思っていたのに。 ブルーの返事は無く、ルージュから言葉を続ける事も出来ないまま、無言の時間が流れて行く。 少しずれて響く2つの靴音だけが、妙に大きく聞こえた。 静かに響く重い沈黙。 その沈黙は、ブルーが破った。 「……何故、と言われてもな」 ふと漏れた呟きに、ルージュは顔を上げる。 視界の中で揺れる、結い上げた長い金の髪。 肩越しに軽く視線を寄越して、ブルーは前を指差した。 「あいつが居るからじゃないのか?」 その指し示す先には、薄暗がりに浮かび上がる光の看板。 異質なものの多い裏通りの中でも、特に異質な存在。 浮かび上がるMの文字が何を意味するのか尋ねた事は無かったが、多分、ロクな答えは返って来ないだろう。 ブルーが指差したのは、その看板を掲げた建物。 その真意を掴みかねて、ぽかん・とルージュは尋ね返した。 「あそこって……」 「魔窟の主の住処」 その建物とは、今日の2人の目的地。 つまり、ヌサカーンの診療所、なのだが。 問いにあっさりと凄まじい表現で答えるブルーを思わず見遣って。 その顔が、余りにも平静通りだったから。 いつもと全然変わらなかったからこそ。 逆に、ルージュは笑い出してしまった。 「ブルー!わー、サイコー!!もー、酷い事、平気で言うんだからー!!」 「……そうか?」 「そうだよぉ!んー、でも確かにその通りかもねー!先生のトコって、ホントに魔窟みたいだもんねぇ。広くて迷宮みたいだし、でもうん、やっぱ迷宮っていうよりは魔窟だよね。そうじゃなかったら、妖怪の館ー!とか♪」 そう言って笑いながらルージュは歩き出した。爆笑した事で、さっきまでの落ち込み気味だった気持ちが一気に浮上したようだ。笑顔で診療所へと歩いて行く。 反対に今度は、ブルーの方が怪訝そうに立ち止まってしまった。顎に手を当てて考え込むブルーに、ルージュが声をかける。 「ブルー?ほら、急ぐんでしょー?」 「…………あぁ」 ゆっくりと視線を向けながら答えを返す。 ルージュは笑って、診療所の脇にある通用口へと向った。 正面玄関には「休診」の札がかかっている。もっともこれが外れている事の方が稀なのだが。 札がかかっていても鍵は空いているので入る事は出来るのだが、正面から入ろうものなら患者扱いされて大変な目に合う事は目に見えている。 なのでルージュは通用口から中へと声をかけた。 「先生ーーー、いるでしょー?本、返しに来たよーーー!」 声をかけてからブルーの方へと振り返って、手を振る。 「ブルー、早くー。置いてくよ?」 「…………今、行く」 短く答え、歩き出して。 ブルーは一言だけ、小さく呟いた。 「……そういう意味じゃないんだがな」 その呟きは、裏通りの暗がりに吸い込まれただけだった。 |
…………解り辛いですよね。ゴメンナサイ。 要する様に、リージョンは球体で、人々はその中で生活してるんです。 球の下側に地面があって、その上の空間が、空。 だけど<クーロン>だけは、その球の内壁ほぼ全てに都市が広がってるんです。 スペースコロニー(懐かしい……)の球体版・って感じですね。 そのため、太陽光は殆ど差しません。 サラフェアから僅かに差し込むだけなのです。 シェルは物質ではなくて、エネルギー流体です。 絶えず流動していて、シップはその流れの弱い所を狙って離発着します。 <クーロン>だけがそのエネルギー流を一部固定して出入り口を造ってあるのです。 他リージョンにサラフェアは無いのです。造ろうとしてるのですけど、上手く行かないのです。 色々と捏造しまくりです。 ただ、どうしてもこういう事を考えちゃうんですよね。 リージョン界は天動説・というのか、昔からのイメージです。 中心にセンターホール・その周りにリージョンスフィア群・外周に太陽・最遠部に星々。 月は8個あり、独自の起動で巡ってます。彗星に近い雰囲気かな。 てか、別にこんな事を考えなくても話は書ける筈なんですけどねー。 ・・・・・考えちゃうんですよねぇ。 開発途中で公開されたクーロンのイメージイラストは、小さな天体の上にびっしりと建物が林立してる感じで。 それはそれで面白かったんですけどね。 さて、うんちく話(笑)はもうちょっと続きます。 2007.8.20 |