そして時は流れ行くけれども 下
  





 どのぐらいそうしていたのだろう。
 うずくまって座って、膝に顔を埋めて。
 寄せては返す波の音だけが響いていた耳に。
 届き始めた、別の音。
 砂を踏んで走って来る、足音。
 それから。



「……アイコ!」



 自分を呼ぶ…………確かな声。



 ゆるゆると顔を上げれば、走って来る兄の姿が視界に入った。

「にーちゃん……」
「アイコ!!こんなトコにいたのかよ!!」
 砂浜を全力疾走するのは、体力自慢の兄であっても辛かったらしい。肩で大きく息をしている。
 直ぐ前で立ち止まり、少しの間、息を整えている。
 怒られる。と、思った。
 約束の時間はもうとっくに過ぎている筈だ。
 それなのにこんな所にいた自分。
 ……一見、大雑把な兄は、約束には厳しいのだ。
 約束を破る事が、何よりも大嫌いなのだ。
 だから。
 怒られる、と思った。


 それなのに。



「なんかあったのか?」



「え……」
 怪訝そうに顔を覗き込んで、そう訊く。
 大きな目に傾き始めた日差しが映っていた。
 瞬きを繰り返す自分を見て、首を傾げる。
 覗き込んで来る体勢を止めて、目の前にしゃがみ込んだ。

「アイコ?」

 責める気配は無く。
 怒ってる風でもなく。
 ただ不思議そうに。
 名前を呼ぶ。

「どうした?」

 じっと覗き込んで来る、大きな目。
 日差しを捕らえて。
 海さえも閉じ込めて。
 空をもその一部として。

 その瞳に映る、自分の顔。


 泣き出しそうな、情けない、顔。






「…………全然、ダメじゃん……」






 本当に情けなかった。





「は?!なんだよ、それ?」

 兄が顎を落とす。
 吃驚した顔で、まじまじと自分の顔を覗き込んで来る。
 その瞳に映る自分の顔が見たくなくて。
 情けなくて全然ダメな自分が見たくなくて。

 もう1度、膝に顔を埋めた。


「アイコ?どした、おい?」


 短気でせっかちな筈の兄が、どうしてなのか怒りもしない。
 いっつもなら、早くしろよ!と怒鳴り始めてもいい頃なのに。
 ただ、声をかけてくれる。
 急かそうともせずに、待っててくれてる。






 自分を、待っててくれている…………。










 それが解ったから。









 情けないままでいる事は、もっと情けないような気がした。









「………にーちゃん」
「ん?」


「……………足、捻った」


「あーあ。やっぱやっちまったかぁ」
 ようやく絞り出すように言ったその言葉に、兄は妙に納得した様な声を上げた。
「右?左?」
「……左」
 そう言ってから左の足首を掴む。
 撫でたり押したり捻ったりして、痛む箇所を確認して。
「ん。軽い捻挫だろ。ちょっと待ってろ」
 そう言うと海へと走って行って、海水でハンカチを濡らして戻って来た。
 そのハンカチで足首を縛ってくれる。
「取りあえず応急処置、な。ばーちゃんちにシップぐらいあると思うから、それで一晩冷やせば大丈夫だろ」
 手当を終えた足首を軽く叩いて笑った。
 海も空も太陽も閉じ込めた大きな目は、全然怒ってなかった。
 そのまま背中を向ける。
「ホラ。おぶってやるよ」
「え?」
 肩越しに振り返る瞳。
「歩くのまだ辛いんだろ?遅くなると母さん心配するし。ホラ」
 おぶさるのは……ちょっと恥ずかしいような気もしたけれども。
 でも、なんだか嬉しいような気もして。

 それに、懐かしかったから。

 顔が火照るのを感じながら、背中に乗っかってみた。
 背中は思ったよりも、暖かかった。


 波の音。
 海鳥の鳴き声。
 兄が砂を踏んで歩く音。


 暖かい背中に揺られながら、そんな音に包まれていたら。




 いろんなものが、ゆっくりと融けて行くみたいで。







 心に固まっていたものが、流れ出して行くみたいで。







 自然と言葉が出ていた。











「ごめんね、にーちゃん」








「ん?なにがだ?」
「サンダル。にーちゃんが言った通り、いつものクツにしとけばよかった」
「あぁそれか。ま、いいさ。アイコもオシャレしたい年頃だもんな」
 あっさりとそう言って笑う。
「でも明日からは、あんまりはしゃがない様にしろよ?そのサンダルでもまぁ、普通に歩くぐらいなら大丈夫だろうし」
「んー。でも、いい。おねえちゃんのサンダル借りる。去年借りたの、履き心地よかったから」
「そっか?ならいいけどよ。痛むようなら言えよ。テーピングしてやるから」
「うん。わかった」


 わかった、にーちゃん。


 心の中で、繰り返す。

 背伸びしたって、ダメなんだ。
 無理して心配かけてるようなら、全然だ。
 それよりもちゃんと。
 自分の出来る事を頑張らなくちゃ。

 無理して大人っぽいサンダル履いて、怪我するよりも。
 いつものクツで元気に遊んだ方が、誰にも心配かけないで済んだんだから。


 もう、わかった。
 

「アイコのやるべき事は、ちゃんと学校に行って、勉強して、友達と遊ぶ事」


 うん。
 それがあたしに出来る最大の事。
 それを頑張っている限りは、かーさんにもにーちゃんにも、心配をかけないんだね。

 だから……がんばるよ。




 あたしも、がんばるから。












 眼前には、海。
 頭上には、空。
 包み込む、風。
 過ぎ行く、雲。
 鳴り響く、潮騒。


 それから、兄が砂を踏んで歩く音と。
 ゆっくりと揺れる、暖かい背中。


 暖かくて、心地良くて、そして優しかったから。





 だから、ちょっと、泣きたくなっただけ。






 なっただけ、だから。






 だから…………もう大丈夫。













「にーちゃん、とーさんみたい」
「いっっ!」
 しがみついたら、背中が一瞬、硬直した。
「お……お前、なぁ。父さんって…………いや光栄かもしんねぇけど、俺まだそこまで年期喰ってねぇだろがよ」
「へへへへ」
 嬉しくなって背中にぴったりと張り付く。
「とーぉさん♪」
「だから違うだろって、それは!!」
 目の前の耳が真っ赤だ。
 背中がさっきよりも熱い。
 兄が父を尊敬していた事は、良く知っている。
 きっといつか、父みたいな人になるんだろう。
 そうなった時に、一緒に笑う為に。


 流れて行く時のままに。



 自分の時間をゆっくりと重ねて行こうと思った。





 




16th. JUL., 2007


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いきなり、書いてしまいました。
イメージだけはもう、随分と前からあった話です。
ええと、たずみさんが「レッド祭り」をやった時に『兄妹喧嘩』の絵を描きながら浮かんだ、
というぐらい、古くからあったネタです。
……しかも、予定外の方向に進んでしまいましたよ。何故。
この後、絵の喧嘩のシーンへと会話は進んで行くのですが……。
……余りにも雰囲気がぶち壊しなので、却下しました。
まぁ、読んでみたい・という奇特な方がおられましたら、こちらからどうぞ。
ただし、読んじゃってからの苦情は受け付けませんよ?

アイコの言う「おねえちゃん」とは従姉の事です。
2つ年上です。アイコとは仲良しです。
去年もお古のクツを借りて遊んだのです。



2007.7.16





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