ACT7『 届かぬ想い 』




 既に世界は薄闇に包まれ始めていて。
 西空に夕日が落とした最後の光が僅かな色彩を残している。
 宵の明星が輝きを放ち。
 鈍い茜色の光を辛うじて残した雲が、その輝きに追いやられていく。

 その微かな光に包まれた世界の中に、ナミが静かに姿を現す。



 それはサンジの目には、この上なく美しい、一枚の絵画の様に見えた。



「………………美しい」
 それまでの状況も忘れて、呆然とそう呟く。
 思わずうっとりとナミの姿に見惚れていると。


 そのナミは、サンジには気付かずに真直ぐゾロへと歩み寄ってしまったのだ。


「あああッ!!!危ねェ、ナミさん!!そのサボテン頭からすぐに離れるんだーッ!!!」
 叫び声に、2人が同時に振り返る。
「サンジ君?!!なんでここに?!!」
「誰がサボテンだ、この渦巻き眉毛!!!」
「うるせェ!!テメェナミさんに手ェ出しやがったら、タダじゃおかねェぞ!!!」
「頼まれたって出したくねェよ!!!」
「なにをぅ?!!テメェ、ナミさんを侮辱する気かーーーッ!!!」
「ちょっと、ゾロ!答えなさいよね!!」
 ゾロとサンジの怒鳴り合いを気にもせずに、ナミはゾロの耳を引っぱった。
「どうしてサンジ君がここにいるのよ?」
 きつく見据えて問い質されても、ゾロは眉を顰めるだけだ。
「あのな、アイツ伯爵だぞ?お前が子爵だって言うから、そのレベルまでの術式の準備しかして来てねェんだよ」
「え?!うそ、サンジ君ってそんなに強いの?」
「……ちゃんと見極めろよな」
「しかたないでしょ。あんたみたいなのが稀なのよ」
 溜息を吐くゾロの腕をナミが叩く。
 見下ろすサンジの目に映るそれは、親しい間柄のじゃれ合い以外の何ものにも見えなくて。

 目の前で、自分が入り込めない世界を展開されている事に、苛立ちが募る。
 結界に突っ込んでみるが、やはりそこで阻まれ、突き破る事も出来ない。
 悔しさに歯軋りし、頭を掻きむしる。

 そんなサンジの心情を無視する様に、2人は顔を寄せ合って話を続けている。
「とにかく、これ以上はおれにはどうしょうもねェからな。自分で何とかしろ」
「ほーんと、役に立たないわね。依頼料、引いとくから」
「……だからおれの責任じゃねェって言ってるだろうが」
「あーら。ゾロがどんな事態にでも対応出来るだけの準備をしておけば良かった事でしょ?」
 ナミの指摘にゾロが返事に詰まって。
 それを見てナミは小さく笑い、ゾロの腕を取った。
「ま、仕方ないから見逃してあげる。その代わり、協力しなさいね」
 その言葉に眉を寄せたゾロが何か言うより早く。
 ナミはゾロの肩に頬を寄せて、サンジを見上げた。
 高空で、サンジはその情景に、目を見開いて固まっている。
 そんなサンジにナミは、少し困った様に微笑みかけて。

「ごめんなさい、サンジ君。こういう事だから、今日はちょっと……ね?」

 上目遣いに微笑んで。
 そっとゾロの肩に頬を寄せるナミを見て。



「……………ッ!!」



 サンジは、意識を失うかとすら思った。





 夜の香りを含んだ風が、静かに吹き抜けていく。





 視界が妙に暗い理由は、宵闇だけではないようだった。


「…………あ、あ……ぁ、ええ、と」

 喉がカラカラに乾いて、声が出て来ない。
 じっと見上げて来るナミの視線が、痛い。
 隣でそっぽを向いたままのゾロの姿はもう見えない気がして。

 ナミの言葉の意味を受け入れたくはなかったけれど。


 それでもサンジは、強張った笑みを浮かべた。


 辛くて、胸が痛くて、決して受け入れたくなくても。
 自分を見上げるナミの、困った様な寂しそうな顔を見る方が辛かった。
 自分が引く事でナミが笑顔に戻れるのなら、それでいい様な気がした。

「……そ、そっか。そういや言ってたよな、ナミさん、今日は都合が悪い・って」

 干涸びた声を、辛うじて絞り出す。
 そうして、何とか笑顔を作ってみせた。無理矢理であっても。
「いいんだ、ナミさん!いやぁ、おれの方こそ、何だか押し掛けたみたいになっちまって……ゴメンな?」
「ううん、いいの。ちゃんと言えなくて……ごめんなさいね」
「あああ、謝らないでくれよ!ナミさんは悪くねェんだから!!じゃ、じゃあ、また……」
「ええ。明日待ってるから」
「…………!おぅ、明日な、ナミさん!!」
 明日・と。そう言ってもらえた事が救いになった。
 また来てもいいんだ・と、心底安堵しながら。
 サンジは羽根を出して、大きく羽ばたいた。
 後ろは振り返らなかった。

 振り返って、2人の姿を見てしまう事が、何よりも辛かったから。




 宵闇に覆われた空に、小さく星が光り始める。

 空を静かに覆い瞬く星々が、まるで泣いている様に見えた。









 暗くなり始めた空に、サンジの姿が見えなくなるのは直ぐで。
 ゾロはナミを振りほどくと、大きく溜息を吐いた。
「……頼むから、おれを色恋沙汰に巻き込むなよ」
 その物言いに、ナミが目を見開く。
「あら。あんたの失敗のフォローをしてあげてるのにヒドい言い草ね」
「やり方ってもんがあるだろうが。いらねェ誤解で面倒に巻き込まれるのはゴメンだぞ」
 何時に無く非難の篭った眼差しに、ナミも反論しかけて口を噤む。
 ゾロはナミを静かに見つめていた。
「明日ちゃんと謝っとけ。……友人だろ」
「……解った」
 わざと傷付ける嘘を付いて追い払った事を責められていると理解し、ナミも頷く。
 ナミだってサンジと喧嘩がしたい訳ではないのだから。
 きちんと事情を説明すれば良かったのだろうか・と思っても、今更遅い。
 明日、また来てくれるとは言ったけれど。
 吸血鬼の性を思えば、自分への興味を失ってしまうかもしれなかった。

 気持ちが沈んだらしく俯いてしまったナミを見て、ゾロは口元に笑みを乗せた。
 そっと手を挙げると、そのままナミの頭を軽く叩く。
 優しく、あやす様な仕草に、ナミの口元にも笑みが浮かんだ。
「……家に入ってろ。出て来るなよ」
「ん」
 小さく頷くと、大きな手は1度だけ髪を撫でて離れた。
 唇を結んでから、ナミは顔を上げる。
 そのままゾロを真直ぐに見つめる。
「無茶、しちゃだめよ」
 静かに同じ色の瞳を覗き込んでそう言う。
 その言葉にゾロは、笑みを浮かべて答えた。
 口の片端を上げ、自負に満ちた笑みで。
「力づくでぶっ飛ばせばいいんだろ。おれ向きの仕事じゃねェか」
 その笑みと、乱暴な物言いに。
 いつものゾロの態度に。
 ナミは漸く、笑った。
「あんたらしいわね。後でお茶煎れて来るわ」
「おう」
 ナミの笑顔を見て、ソロは笑い返すと背を向けた。
 3振りの内、漆黒の鞘の刀を抜くとそのまま歩き出す。
 その背を見送って、ナミは家へと入って行った。

 今更、考えても仕方ない事を何時までも気に病んでいてもどうしようもないのだ。
 それよりも今は、お互いにやるべき事をやるだけ。

 そう気持ちを切り替えて。












 満月が静かに中天を回る。














 降り注ぐ月光を身に浴びながら、サンジはぼんやりとタバコを銜えていた。

 城の最上階のテラスで、帰って来てからずっと月を見つめている。
 傍らのテーブルに置かれた灰皿には、吸い殻が堆(うずたか)く詰み上がっている。
 紅茶は既に冷めてしまい。
 ゆっくりと月が天空を横切って行くのを見つめていた。


 城に戻って来るなり、1人にしてくれ・と言ってここに上ってしまったサンジに、城の者達は驚きと戸惑いを見せていた。
 人間界に通い始めてからこんなに早く戻って来る事も初めてなら、あんなに落胆しているのも初めてだった。
 何時もは幸せに蕩けた笑顔で帰って来て、余韻が冷めるまで1人で浮かれているというのに。
「…………とうとうフラレたかぁ」
「いつかはこうなるとは思ってたけどよぉ」
「いや、今回は持った方だろ」
 そんな身も蓋もない声があちこちで囁かれていた。


 もちろん、当の本人は、そんな事を知る由もなく。


 吸う事すら忘れたタバコが、フィルターを焦がす音に、のろのろと手を上げた。
 短くなったそれを取り、無造作に灰皿に押し付ける。
 そして、機械的に新しいタバコを取り出すと、口に銜えた。
 マッチを擦り、火を点ける。
 そしてまた、天空を仰ぎ見た。

 大きな満月は、中天より少し低くなっていた。


「………………ナミさん」


 その月を見ても、脳裏に浮かぶのはただ1人の笑顔。
 本当ならこの月を、2人で一緒に見ていた筈なのに。
 そう思う程に、今の自分の置かれている状況が、寂しくて仕方なかった。

 食材は冷蔵庫に入れたから、明日まで保つけれど。
 満月は明日まで保たないのだ。

 月光の中を、ナミを腕に抱いてデート出来ると思っていたのに。
 どうして、今、自分は独りで居るのだろう・と。
 そんな考えが浮かぶにつれ、気持ちが沈んで行く。
 昨日までの楽しかった日々すら、幻の様に思えて来る。

 大きく溜息を吐いて、項垂れてしまった。

「……ナミさん、今、何してるんだろうなァ」
 ふとそう呟いて。
 そして、自嘲気味に笑って首を振った。
 何をしているもどうも、今頃ナミは、あの男と一緒に居る筈で。


「…………何?」


 自分が思った言葉に。
 サンジは我に返った。

 どうして、この事に思いが及ばなかったのか。


 それこそ、冷水を掛けられた様な気がした。




「……しまったぁぁぁあああッ!!!!」




 絶叫と共に、サンジは飛び立っていた。
 目を吊り上げ、口元を歪め、憤怒の形相を浮かべて。
 そのまま凄まじいスピードで魔界の空を横切って行く。

「ああああ、おれとした事が!!!なんて事だ!!!なんだってあのクソヤロウとナミさんが、ふ、ふふ、ふたり、きり・っになるのを許しちまうなんて……ッ!!!」

 今、漸くサンジは、その事に気が付いたのだ。
 どうやらゾロの結界は、多少はサンジに影響を及ぼしていたようである。
「あのサボテンヤロウ、ナミさんに手ェ出してねェだろうな!!人間の男あんな美しいナミさんと、ふ、2人きりで……黙ってられるワケがねェ……!!」
 ゾロが聞けば嫌そうに首を振っただろうが。
 サンジには、ナミに近付くもの全てがナミを狙っている様に思えていたので、仕方ないのかもしれない。
 羽根を大きく打ち振り、一気に加速する。
 サンジにとっても、これ程スピードを出して飛ぶのは初めての事だった。
「ご無事で、ナミさんッ!!!貴女のナイトが、今、参りますーーーーッ!!!!」
 絶叫を上げて夜空を突っ切り。
 そのままの勢いでサンジはゲートを飛び抜けていた。

 人間界の月の、魔界より重い光がその背にのしかかる。

 一瞬、息を詰めてから、サンジはナミの街へと向かおうとして。
 そして、弾かれた様に振り返った。
「?!!」
 地上から感じた気配に、自分の感覚を疑ってしまったが。
 それでも、振り返った視界に飛び込んで来た姿に、それが勘違いでは無い事を知った。

 月光に照らされた青い世界。
 その中に、不釣り合いな土煙と地響き。
 2つ向こうの山から立ち昇るそれを、吸血鬼であるサンジの目は難なく捉えた。
 そして、その土煙の中にいる者達の姿さえも。

 地を揺るがして走る者達は、ライカンスロープあるいは獣人と呼ばれる人と獣の双方の特徴を併せ持つ魔物達だった。
 本来、サンジと同じように魔界に属する筈の彼らが、大群で人間界を駆け抜けていく理由は解らなかったが。
 だがすぐに、サンジはその理由を思い当たった。
 ライカンスロープの先頭を走る者の姿と、その方向に気が付いて。


「アイツ……アブサロムじゃねェか!!!」

 アブサロムはライカンスロープの中でも特に強く、『獣王』の異名も持っている程だ。
 そして、それ以上に『女好き』でも知られていた。




 そのアブサロム率いる一群が目指しているのは、間違いなくナミが住む街の方角だった。




「……ナミさんが危ねェ!!!!」

 叫び、サンジは一気に夜空を突っ切る。
 女好きで知られるアブサロムがナミの街を目指している以上、狙いはナミなのだろう。
 サンジにとって、ほかの可能性は考えられなかった。
 もし借りに、他の女性が目当てだったとしても、ナミを一目見たら心変わりするかもしれないのだ。
 面識こそなかったが、アブサロムの女好き度の凄まじさはサンジの耳にも届いていた。




 羽根が千切れたって構わない。


 それ程の想いで、夜空を飛ぶ。
 間に合えばそれでいい。
 ナミを護る事しか頭には無かった。


 永遠にも思える僅かな時間を越えて。
 辿り着いた街の上空で、サンジを待ち受けていたのは。








 その存在を忘れていた、ゾロが張った結界だった。












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