ふと顔を上げて、夕闇すら色を失い始めている事に気付いた。 時計を見ると、時刻は午後6時47分。 「いけない…!もうこんな時間?!」 ナミは慌てて読みかけの本にカードを挟むと、簡単に机の上を片付けて立ち上がった。 自室を出てリビングに向かう。灯りに火を点け、リビングが整っているか見渡して。 大丈夫・と、一息吐いた視界に、ガラス窓に映る自分の姿が入った。 既に日が落ち、外は薄暗くなり始めていて、窓は鏡のように自分の姿を映している。 それを見て、髪が乱れていない事を確かめ居住まいを整える。 おかしな所は無いかガラスに映る自分の姿を確かめて。 そして、不意に我に返った。 自分の行動に、思わず赤面する。 「や…だ。これじゃ、私がサンジ君を心待ちにしてるみたいじゃない」 両手で自分の頬を押さえてそう呟いてしまう。 けれど、7時が近くなるとソワソワしてしまうのも、確かな事実で。 ちょっと困ったように視線を泳がせて。 それからナミはおもむろに拳を握りしめた。 「違うわね!サンジ君のご飯が楽しみなのよっ、そうなのよ!」 拳を固めての力説をサンジが聞けばショックに拉(ひし)がれたかもしれないが。 それでも、理由はどうあれナミがサンジの来訪を心待ちにしているのは、確かだった。 それは初対面の頃には考え付かなかった程の心境の変化だった。 どうせ来ないだろう・というナミの予想に反して、翌日の午後7時丁度にサンジは現れた。 今度はきちんと呼び鈴を鳴らして、である。 来ると思っていなかったナミは呆気にとられたが、それでも良くて3日坊主と改めて思った。 ところが、3日どころか5日経ってもサンジはナミの元を訪れ。 じゃあ、1週間続けば上々・と考え直したと言うのに。 サンジはその1週間どころか、10日経っても足しげく通い続けた。 その頃には流石のナミも、サンジの誠意を認めるようになっていた。 本当に嫌なら、どんな手段を使ってでも追い払っただろう。 それが出来なかった理由は、一個人としてのサンジが思いのほか良い人だったからに尽きる。 人……というか、吸血鬼だが。まぁそこは置いておいて。 とにかく、サンジ自身は明るくおおらかでいて誠実な、むしろ好ましい性格の持ち主だったのだ。 加えて話術も巧みで礼儀も心得ており、更にはとことんまでフェミニスト。 多少、軽過ぎる一面を除けば、友人付き合いをする事に不満はない相手だった。 そして、来訪を待ってしまうもう1つの理由が、その料理の腕だった。 一口食べた瞬間、ナミは目を見張ったのだ。 大した事の無い料理だったら、2度と家には入れない。そう決意して食卓に付いたのだが。 たった一口でその決意は崩れ去ってしまった。 鋼の精神力で知られるナミの決意が、である。 そのぐらいサンジの料理は絶品だったのだ。 上級貴族はおろか、王族に供しても遜色無いのではないかと思う程だった。 魔法でもかけてあるの?・と訊くと、まさか!・と憤慨された。 曰く、術を仕込んだ料理を食べた人間の血は、味が薄くなって不味い・という事らしい。 最高級の料理の出来映えは、純然たるサンジの腕の賜物だった。 そしてサンジは、ナミの家のキッチンは使うが、それ以外の物は一切使用しなかった。 唯一の例外はナミが育てているみかんとハーブだったが、それらも3日前からナミが提供しているからだ。 食材は勿論、水・調味料・燃料となる薪、果ては鍋や食器に至るまでを持参して来る。 魔力で小さな鞄の中に圧縮してきたそれらを次々と取り出し、僅か30分足らずで手際よくフルコースを作り上げる。 流れるように素早く淀みない調理風景は、傍で眺めていて感嘆してしまう程だった。 当然だが、使い終わったキッチンは汚れ一つ残っていない。 ここまで徹底されれば、拒む理由は思い当たらなかった。 友人としてなら仲良くしても構わない。 そう思ったから、つい来訪を拒めなくなった。 それに、サンジも決して自分の気持ちをごり押ししない。 きちんと節度を守って接してくれている。 この先、どう転ぶか解らないけれど。 少なくとも、今、サンジに対して嫌悪感は抱いていない。 それがナミの現状での答えだった。 「今日は何を作ってくれるのかしらね」 期待に満ちた笑顔で、ナミはそう呟いて。 そして、窓の中の明るい光に気が付いた。 視界に入ったそれは、その存在感を増し始めた6日目の月。 かなり太さを増したその月に、ナミの表情が曇った。 「6日目……そうだ、また満月が来るんだわ」 整った眉を微かに寄せて、口元を引き締める。 サンジと出会ってから、2週間を越えた。 あと10日足らずで満月が来る。 ナミはガラス越しの月を見据えた。 深みを増して行く空にその存在を主張する6日目の月。 「満月は……マズいわよね」 口元に手を当てて、そう呟く。 ナミが真剣な顔で考えに耽った時。 不意に、玄関の呼び鈴が軽やかに鳴った。 弾かれたように振り返ると、今度は明るい口調で聞き慣れた声が響く。 「ナミさ〜ん。今宵も貴女のシェフが、最高のディナーを作りに参りましたよー」 カラララン・と再度、呼び鈴が鳴る。 考えを打ち砕くその明るい声音に、思わず笑みが零れた。 「あれ?ナミさ〜〜〜ん?いらっしゃらない……ワケがねェよなぁ?」 ちょっと不安げな声に、くすくすと笑いを漏らして。 「はーーい。ごめんなさい、サンジ君。今、開けるわ」 声を掛けて、カーテンを引いた。 窓の外の月を隠すように。 懸念を追い払うように。 「いらっしゃい、サンジ君」 「おお!ナミさん、今夜も貴女はなんて美しいんだ……!昨日の空色のワンピースも可愛らしかったが、今日はワインレッドのブラウスにココアブラウンのスカート……なんて見事なコーディネイト!一段と貴女の美しさを際立たせていらっしゃる!」 「はい、ありがと。それより今日は何を作ってくれるの?」 「今日は少し、魔界の逸材も取り合わせようと思って。これなんだけどね」 「あら!大きなエビ!!美味しそう!!」 「だろ〜ぅ?!今が旬のモノなんだけど、これが炙ると実に香ばしくて、オリーブオイルのソースに良く合うんだぜ」 「じゃあ、楽しみにしてるわね」 「お任せをッ!!早速取りかかるからねー!」 月を閉め出した室内に、明るい声が響く。 不安の材料を忘れようとして。 胸中の懸念を隠すように。 「タバコ、いいかな?」 「ええ、どうぞ」 夕食が終わって、ハーブティとサンジ特製のデザートで寛いでいる時に。 一声掛けてからシガーボックスを取り出すサンジに、ナミが小さく笑った。 サンジは怪訝そうに顔を向ける。 特に可笑しなやり取りをしたつもりは無かったのだが。 その疑問は、ナミが笑顔で晴らしてくれた。 「必ず断るわよね。別に気にしないで吸ってくれていいのよ?」 サンジ君って紳士よね・とナミが笑う。 その言葉に、サンジはちょっと照れた様に笑った。 「初めて会った時に断られただろ?だから、ナミさんはタバコが苦手なのかと思ってね」 サンジがそう言うと、ナミは一層可笑しそうに笑った。 「あれは特別よ。初対面の吸血鬼に、いきなり打ち解けろ・って方がムリでしょ?」 そう言って一頻り笑ってから、ナミはふと静かな笑みを浮かべた。 浮かべたそれは、遠くを見る視線。 誰かを懐かしむような表情で。 「その香りは好き。ベルメールさんと同じ銘柄だから」 初めて聞いた名前に、サンジの特徴的な眉がぴくりと上がった。 「……ナミさんの、大事なヒトなのかい?」 つい、伺う様な声が出たのだろう。 ナミは一瞬、怪訝そうな顔をして。 そして、笑った。 「もちろん。だって母親だもの」 「へ」 予想外の答えに、思わず間抜けな声が出た。 口から落ちかけたタバコを、慌てて押さえる。 向かいでナミがくすくすと笑っていた。 「恋人かと思った?」 「そ、そりゃあ……ひでェなぁ、ナミさん。ヒトが悪いぜ。おれはこんなにも貴女を愛してるって言うのに、その愛を試す様な事を言うなんて」 胸に手を当て天を仰ぐと、ナミは声を立てて笑った。 「別に試してなんかいないでしょ?サンジ君が勝手に誤解したんだもの」 「あああ、そんなイジワルなナミさんもステキだーーー!!!」 大げさに叫ぶと、ナミが楽しそうに笑う。 その声を聞きながら、ふと感じた疑問にサンジは首を捻った。 この家に、ナミ以外の人間が暮らしている気配は無いのだが。 昼間に出入りしている人が居る事は知っていた。 多くはナミの友人であり、ハーブ作りを手伝っている人達だ。 ナミの家には5本のみかんの木を中心に造られた結構な大きさのハーブガーデンがあり、主な収入となっている。 ここのハーブは評判が良く、街にある料理屋のかなりの数が買い付けに来ている程だ。 他にも店に卸している分もあるし、わざわざ他の街から買いに求めて来る人すら居る程である。 そして、このハーブガーデンの他にも、ナミは週に2回近所の学校まで読み書きと簡単な算術を教えに行っていた。 留守にしている間や忙しい時には、親しい友人達が手伝いに来ているのだった。 でもそれは、あくまでも昼間だけの事。 夕食を作る為に通う様になってから、只の1度もナミ以外の人間には会っていない。 それにナミも言っていた。「女の1人暮らし」だと。 つまり、この家に今、ナミの母親はいないのだ。 そのいない母を、懐かしむような視線で語る。 そこから導き出される答えは、1つしか無いように思えた。 「……ごめん、ナミさん!」 「え?何?」 突然謝られて、ナミは驚いて顔を上げた。 テーブルに両手を付いて頭を下げるサンジの姿に、きょとんとして首を傾げる。 サンジは額を擦り付ける様にして更に頭を下げる。 「おれとした事が、貴女の気持ちを何も考えずに不躾な事を……!!辛い話だっただろう?本当にすまねェ……!」 そう言われてもナミはただ首を傾げるばかりで。 不思議そうにサンジの顔を覗き込んだ。 「ゴメン、話が見えないんだけど……何の事?」 問われて、サンジは一瞬、答えに詰まり。 そして、決意と共に口を開いた。 「その……ナミさんのお母様の事を……知らなかったとはいえ、辛い事を話させちまって……」 苦悶の表情で首を振るサンジに。 ナミは大きくその瞳を見開いて。 「ベルメールさんの事って…………あーーーッ!!や、やだ、サンジ君、誤解した?!!」 漸く、サンジが言わんとしている事に見当が付き、ナミは思わず叫んでしまった。 「へ?誤解って……」 「大丈夫よ、ベルメールさん、ちゃんと生きてるから!!!別に亡くなった・とかじゃないのよ?!!」 「あ・そ、そうなのかい?」 手を振って叫ぶナミに、サンジも思わず間抜けな声を出した。 「びっくりしたー。どうしてそんな誤解するのよ?」 「いや、ナミさんがすごく寂しそうな切なそうな顔で、お母様の話をしたから、てっきり……」 「えええ?私、そんな顔してたの?」 「そりゃあもう!優しく抱きしめて、おれの胸で泣かせてあげたくなるような切ない顔を!!!」 「はいはい、それはまたの機会・って事でね」 身を乗り出して力説するサンジを、軽くあしらって。 ナミは頬杖を付いて笑った。 「1年半……もうちょっと前になるんだけど、大怪我をしちゃって。ここでは治療できなくて、遠くで療養してるの。遠過ぎてちょっと会いに行けないから……それで、ね」 ふと言葉を区切って。 見せる表情は、やはり何処か寂しそうで。 遠くを見る視線に篭る愛おしさは、隠し様もなくて。 サンジは小さく胸が痛んだ。 それでもナミは、直ぐに笑ってその表情を消してしまう。 「でも、もう大分良くなったのよ。最近は手紙もくれる様になったしね」 ナミの笑顔に、無理をしている様な気配は感じられなくて、サンジはほっとした。 無理して笑っているのなら、自分の前ではそんな事をしなくていいよ・と言ってあげようと思ったのだが。 代わりに、とびきりの笑顔をナミに返す。 「じゃあお母様が帰って来たら、おれが最高のディナーを作ってさしあげるよ」 胸に手を当ててそう言うと、ナミも嬉しそうに笑った。 「ありがとう。期待してるわね」 「お任せ下さい、ナミさんーーー!!!」 喜びのままにそう言うと、ナミが笑う。 その笑顔が見れる事が、サンジに取って何よりの幸せだった。 月が満ちる様に、想いが満ちて行く様で。 サンジは、ただ、幸せだけを全身で感じていた。 |