ACT 3『 満ちゆく月と 』




 ふと顔を上げて、夕闇すら色を失い始めている事に気付いた。
 時計を見ると、時刻は午後6時47分。
「いけない…!もうこんな時間?!」
 ナミは慌てて読みかけの本にカードを挟むと、簡単に机の上を片付けて立ち上がった。
 自室を出てリビングに向かう。灯りに火を点け、リビングが整っているか見渡して。
 大丈夫・と、一息吐いた視界に、ガラス窓に映る自分の姿が入った。
 既に日が落ち、外は薄暗くなり始めていて、窓は鏡のように自分の姿を映している。
 それを見て、髪が乱れていない事を確かめ居住まいを整える。
 おかしな所は無いかガラスに映る自分の姿を確かめて。
 そして、不意に我に返った。
 自分の行動に、思わず赤面する。
「や…だ。これじゃ、私がサンジ君を心待ちにしてるみたいじゃない」
 両手で自分の頬を押さえてそう呟いてしまう。
 けれど、7時が近くなるとソワソワしてしまうのも、確かな事実で。
 ちょっと困ったように視線を泳がせて。
 それからナミはおもむろに拳を握りしめた。

「違うわね!サンジ君のご飯が楽しみなのよっ、そうなのよ!」

 拳を固めての力説をサンジが聞けばショックに拉(ひし)がれたかもしれないが。
 それでも、理由はどうあれナミがサンジの来訪を心待ちにしているのは、確かだった。

 それは初対面の頃には考え付かなかった程の心境の変化だった。





 どうせ来ないだろう・というナミの予想に反して、翌日の午後7時丁度にサンジは現れた。
 今度はきちんと呼び鈴を鳴らして、である。
 来ると思っていなかったナミは呆気にとられたが、それでも良くて3日坊主と改めて思った。
 ところが、3日どころか5日経ってもサンジはナミの元を訪れ。
 じゃあ、1週間続けば上々・と考え直したと言うのに。
 サンジはその1週間どころか、10日経っても足しげく通い続けた。
 その頃には流石のナミも、サンジの誠意を認めるようになっていた。

 本当に嫌なら、どんな手段を使ってでも追い払っただろう。
 それが出来なかった理由は、一個人としてのサンジが思いのほか良い人だったからに尽きる。
 人……というか、吸血鬼だが。まぁそこは置いておいて。
 とにかく、サンジ自身は明るくおおらかでいて誠実な、むしろ好ましい性格の持ち主だったのだ。
 加えて話術も巧みで礼儀も心得ており、更にはとことんまでフェミニスト。
 多少、軽過ぎる一面を除けば、友人付き合いをする事に不満はない相手だった。

 そして、来訪を待ってしまうもう1つの理由が、その料理の腕だった。

 一口食べた瞬間、ナミは目を見張ったのだ。
 大した事の無い料理だったら、2度と家には入れない。そう決意して食卓に付いたのだが。
 たった一口でその決意は崩れ去ってしまった。
 鋼の精神力で知られるナミの決意が、である。
 そのぐらいサンジの料理は絶品だったのだ。
 上級貴族はおろか、王族に供しても遜色無いのではないかと思う程だった。

 魔法でもかけてあるの?・と訊くと、まさか!・と憤慨された。
 曰く、術を仕込んだ料理を食べた人間の血は、味が薄くなって不味い・という事らしい。
 最高級の料理の出来映えは、純然たるサンジの腕の賜物だった。

 そしてサンジは、ナミの家のキッチンは使うが、それ以外の物は一切使用しなかった。
 唯一の例外はナミが育てているみかんとハーブだったが、それらも3日前からナミが提供しているからだ。
 食材は勿論、水・調味料・燃料となる薪、果ては鍋や食器に至るまでを持参して来る。
 魔力で小さな鞄の中に圧縮してきたそれらを次々と取り出し、僅か30分足らずで手際よくフルコースを作り上げる。
 流れるように素早く淀みない調理風景は、傍で眺めていて感嘆してしまう程だった。
 当然だが、使い終わったキッチンは汚れ一つ残っていない。
 ここまで徹底されれば、拒む理由は思い当たらなかった。


 友人としてなら仲良くしても構わない。
 そう思ったから、つい来訪を拒めなくなった。
 それに、サンジも決して自分の気持ちをごり押ししない。
 きちんと節度を守って接してくれている。

 この先、どう転ぶか解らないけれど。
 少なくとも、今、サンジに対して嫌悪感は抱いていない。

 それがナミの現状での答えだった。


「今日は何を作ってくれるのかしらね」
 期待に満ちた笑顔で、ナミはそう呟いて。
 そして、窓の中の明るい光に気が付いた。
 視界に入ったそれは、その存在感を増し始めた6日目の月。
 かなり太さを増したその月に、ナミの表情が曇った。

「6日目……そうだ、また満月が来るんだわ」

 整った眉を微かに寄せて、口元を引き締める。
 サンジと出会ってから、2週間を越えた。
 あと10日足らずで満月が来る。
 ナミはガラス越しの月を見据えた。

 深みを増して行く空にその存在を主張する6日目の月。


「満月は……マズいわよね」


 口元に手を当てて、そう呟く。

 ナミが真剣な顔で考えに耽った時。
 不意に、玄関の呼び鈴が軽やかに鳴った。
 弾かれたように振り返ると、今度は明るい口調で聞き慣れた声が響く。
「ナミさ〜ん。今宵も貴女のシェフが、最高のディナーを作りに参りましたよー」
 カラララン・と再度、呼び鈴が鳴る。
 考えを打ち砕くその明るい声音に、思わず笑みが零れた。
「あれ?ナミさ〜〜〜ん?いらっしゃらない……ワケがねェよなぁ?」
 ちょっと不安げな声に、くすくすと笑いを漏らして。
「はーーい。ごめんなさい、サンジ君。今、開けるわ」
 声を掛けて、カーテンを引いた。
 窓の外の月を隠すように。

 懸念を追い払うように。


「いらっしゃい、サンジ君」
「おお!ナミさん、今夜も貴女はなんて美しいんだ……!昨日の空色のワンピースも可愛らしかったが、今日はワインレッドのブラウスにココアブラウンのスカート……なんて見事なコーディネイト!一段と貴女の美しさを際立たせていらっしゃる!」
「はい、ありがと。それより今日は何を作ってくれるの?」
「今日は少し、魔界の逸材も取り合わせようと思って。これなんだけどね」
「あら!大きなエビ!!美味しそう!!」
「だろ〜ぅ?!今が旬のモノなんだけど、これが炙ると実に香ばしくて、オリーブオイルのソースに良く合うんだぜ」
「じゃあ、楽しみにしてるわね」
「お任せをッ!!早速取りかかるからねー!」


 月を閉め出した室内に、明るい声が響く。
 不安の材料を忘れようとして。
 胸中の懸念を隠すように。













「タバコ、いいかな?」
「ええ、どうぞ」

 夕食が終わって、ハーブティとサンジ特製のデザートで寛いでいる時に。
 一声掛けてからシガーボックスを取り出すサンジに、ナミが小さく笑った。
 サンジは怪訝そうに顔を向ける。
 特に可笑しなやり取りをしたつもりは無かったのだが。
 その疑問は、ナミが笑顔で晴らしてくれた。
「必ず断るわよね。別に気にしないで吸ってくれていいのよ?」
 サンジ君って紳士よね・とナミが笑う。
 その言葉に、サンジはちょっと照れた様に笑った。
「初めて会った時に断られただろ?だから、ナミさんはタバコが苦手なのかと思ってね」
 サンジがそう言うと、ナミは一層可笑しそうに笑った。
「あれは特別よ。初対面の吸血鬼に、いきなり打ち解けろ・って方がムリでしょ?」
 そう言って一頻り笑ってから、ナミはふと静かな笑みを浮かべた。
 浮かべたそれは、遠くを見る視線。
 誰かを懐かしむような表情で。

「その香りは好き。ベルメールさんと同じ銘柄だから」

 初めて聞いた名前に、サンジの特徴的な眉がぴくりと上がった。
「……ナミさんの、大事なヒトなのかい?」
 つい、伺う様な声が出たのだろう。
 ナミは一瞬、怪訝そうな顔をして。
 そして、笑った。
「もちろん。だって母親だもの」
「へ」
 予想外の答えに、思わず間抜けな声が出た。
 口から落ちかけたタバコを、慌てて押さえる。
 向かいでナミがくすくすと笑っていた。
「恋人かと思った?」
「そ、そりゃあ……ひでェなぁ、ナミさん。ヒトが悪いぜ。おれはこんなにも貴女を愛してるって言うのに、その愛を試す様な事を言うなんて」
 胸に手を当て天を仰ぐと、ナミは声を立てて笑った。
「別に試してなんかいないでしょ?サンジ君が勝手に誤解したんだもの」
「あああ、そんなイジワルなナミさんもステキだーーー!!!」
 大げさに叫ぶと、ナミが楽しそうに笑う。
 その声を聞きながら、ふと感じた疑問にサンジは首を捻った。

 この家に、ナミ以外の人間が暮らしている気配は無いのだが。

 昼間に出入りしている人が居る事は知っていた。
 多くはナミの友人であり、ハーブ作りを手伝っている人達だ。
 ナミの家には5本のみかんの木を中心に造られた結構な大きさのハーブガーデンがあり、主な収入となっている。
 ここのハーブは評判が良く、街にある料理屋のかなりの数が買い付けに来ている程だ。
 他にも店に卸している分もあるし、わざわざ他の街から買いに求めて来る人すら居る程である。
 そして、このハーブガーデンの他にも、ナミは週に2回近所の学校まで読み書きと簡単な算術を教えに行っていた。
 留守にしている間や忙しい時には、親しい友人達が手伝いに来ているのだった。

 でもそれは、あくまでも昼間だけの事。

 夕食を作る為に通う様になってから、只の1度もナミ以外の人間には会っていない。
 それにナミも言っていた。「女の1人暮らし」だと。
 つまり、この家に今、ナミの母親はいないのだ。
 そのいない母を、懐かしむような視線で語る。


 そこから導き出される答えは、1つしか無いように思えた。


「……ごめん、ナミさん!」
「え?何?」
 突然謝られて、ナミは驚いて顔を上げた。
 テーブルに両手を付いて頭を下げるサンジの姿に、きょとんとして首を傾げる。
 サンジは額を擦り付ける様にして更に頭を下げる。
「おれとした事が、貴女の気持ちを何も考えずに不躾な事を……!!辛い話だっただろう?本当にすまねェ……!」
 そう言われてもナミはただ首を傾げるばかりで。
 不思議そうにサンジの顔を覗き込んだ。
「ゴメン、話が見えないんだけど……何の事?」
 問われて、サンジは一瞬、答えに詰まり。
 そして、決意と共に口を開いた。
「その……ナミさんのお母様の事を……知らなかったとはいえ、辛い事を話させちまって……」
 苦悶の表情で首を振るサンジに。
 ナミは大きくその瞳を見開いて。
「ベルメールさんの事って…………あーーーッ!!や、やだ、サンジ君、誤解した?!!」
 漸く、サンジが言わんとしている事に見当が付き、ナミは思わず叫んでしまった。
「へ?誤解って……」
「大丈夫よ、ベルメールさん、ちゃんと生きてるから!!!別に亡くなった・とかじゃないのよ?!!」
「あ・そ、そうなのかい?」
 手を振って叫ぶナミに、サンジも思わず間抜けな声を出した。
「びっくりしたー。どうしてそんな誤解するのよ?」
「いや、ナミさんがすごく寂しそうな切なそうな顔で、お母様の話をしたから、てっきり……」
「えええ?私、そんな顔してたの?」
「そりゃあもう!優しく抱きしめて、おれの胸で泣かせてあげたくなるような切ない顔を!!!」
「はいはい、それはまたの機会・って事でね」
 身を乗り出して力説するサンジを、軽くあしらって。
 ナミは頬杖を付いて笑った。
「1年半……もうちょっと前になるんだけど、大怪我をしちゃって。ここでは治療できなくて、遠くで療養してるの。遠過ぎてちょっと会いに行けないから……それで、ね」
 ふと言葉を区切って。
 見せる表情は、やはり何処か寂しそうで。
 遠くを見る視線に篭る愛おしさは、隠し様もなくて。

 サンジは小さく胸が痛んだ。

 それでもナミは、直ぐに笑ってその表情を消してしまう。
「でも、もう大分良くなったのよ。最近は手紙もくれる様になったしね」
 ナミの笑顔に、無理をしている様な気配は感じられなくて、サンジはほっとした。
 無理して笑っているのなら、自分の前ではそんな事をしなくていいよ・と言ってあげようと思ったのだが。
 代わりに、とびきりの笑顔をナミに返す。
「じゃあお母様が帰って来たら、おれが最高のディナーを作ってさしあげるよ」
 胸に手を当ててそう言うと、ナミも嬉しそうに笑った。
「ありがとう。期待してるわね」
「お任せ下さい、ナミさんーーー!!!」
 喜びのままにそう言うと、ナミが笑う。
 その笑顔が見れる事が、サンジに取って何よりの幸せだった。


 月が満ちる様に、想いが満ちて行く様で。
 サンジは、ただ、幸せだけを全身で感じていた。











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