ACT 1『 星明かりに謳う恋 』




 笑みを浮かべたまま、サンジはベッドへと歩み寄る。
 革靴で木の床の上を歩いているというのに、足音一つしない。
 まるで姿だけが静かに歩いて行くような、異様な光景だった。
 けれど、彼らにとっては、これが普通の事。
 無闇矢鱈と自分達の痕跡を残さず、その気配すら悟らせない。
 『上級』の魔物である程に、その事に拘っていた。

 サンジも自身の魔力に自負を持つ1人だ。
 人と接触する時に騒ぎを起こすような無様な真似は決してしなかった。

 ゆっくりと音も無くベッドへと近寄る。
 その中には、1人の女性。
 こちらに背を向けて横たわる白い肩と、零れ落ちる明るいオレンジ色の髪。
 それを認めて、サンジの笑みが深くなる。
 ベッドの傍で立ち止まると、その手を胸に当てて緩やかに礼を取った。
 見下ろす瞳は鋭く、口元の笑みは消えない。
 そして、密やかにその口を開いた時。

 不意に、ベッドの中の女性が寝返りを打ったのだ。
「……ん」
 微かな声を立て、サンジの方へと振り返ったその顔を見て。





「…ッ!!め、女神っ?!!!」





 思わずサンジは叫び身を引いてしまった。
 そのまま目を見開いて、ベッドの中の女性を凝視する。
 女性はその声に目を覚ます事も無く、眠り続けている。
 この状況下でそれも、ある意味凄いかもしれないが。
 その寝顔を固まったまま見据えていたサンジは、暫く経ってようやく、溜息と共に息を吹き返した。
「……ち、違った。人間の女性だ。間違いねェ、ナミさんだ」
 大きく息を吐いて、拳で額の汗を拭い。
 そして、改めて背筋を伸ばす。
 驚きに緩んでしまった顔を引き締め直して、再度、ベッドの中で眠りこけるナミへと礼を取った。
「失礼、レディ。貴女の美しさは、間違えて女神の寝室を訪れてしまったかと思った程。夜明け前の神々しい光を湛えた空の元の貴女も美しかったが、今宵の様な星明かりの元では、その美しさは女神の域にも達していると言えましょう」
 眠る相手にそう賛辞を述べると、胸に手を当てて天を仰いだ。
「この様な夜更けに押し入った無礼、平に御容赦頂きたい。貴女に一目会った瞬間から始まったこの胸のときめきは、時と共に治まるどころか激しさを増す一方。最早、居ても立ってもいられず、気が付けばこうして貴女の元へと来てしまっていたのです」
 歯の浮く様な言葉を並べて、今度はその両手を大きく広げる。
「いくら招待を受けているとはいえ、こんな夜遅くに女性の寝室を訪ねるなど、紳士にあるまじき行為。けれど、そうと解っていても自分を抑える事が出来なかったこのボクを、どうぞお笑い下さい。ええ、そうですとも、この身はまさしく恋の奴隷。ただ1度だけ、その肌に触れる事をお許し頂ければそれで至福なのです」
 芝居がかった大げさな身振りを付けて、サンジは声高に台詞を続ける。
 ナミが微かに眉を寄せた事に気付かずに、ゆっくりと上体を屈めた。
 その口元に、鋭い牙が覗く。
「どうかご安心を。決して痛い思いはさせませんから。もちろん、その玉の様な肌には痕一つ残しません。たった一口、その血を頂くだけですので……」
 眠るナミに、ゆっくりとサンジは身を伏せて。
 そして、その首筋に牙を立てようとした。

 正に、その時。



 何の前触れも無く、ナミが目を覚ましたのだ。







 状況を把握する迄の時間、僅か0.5秒。







「どっから入って来たのよ、この変質者ーーーーーッッ!!!!」

 絶叫と共にサンジの腹部に何かとてつもなく固い物がヒットする。
「ぅげッ!!!!」
 短い呻きを上げて、サンジの身体が吹っ飛ばされた。
 床を転がって行くその姿に目もくれず、ナミは手早くベッド脇のランプに灯を点けた。
 ずり落ちかけたキャミソールの肩紐を直し、ガウンを羽織る。
 先程、サンジを叩きのめすのに使った長い棒と、枕元に置いてあった袋を手に取り、改めてサンジを睨みつけた。
 サンジは呻きながら、何とか立ち上がった所だった。
 その出で立ちに僅かに目を眇めてから、ナミは憮然とした表情を浮かべる。
「吸血鬼が何の用?」
 苦し気に腹をさする様子には目もくれずに、きつくそう言い放つ。
 棘のある声にめげもせずに、サンジは笑った。
「相変わらず手厳しいなァ、ナミさんは。ま、そこも魅力的なんだけどね」
 服の埃を払い、にっこりと笑う。
 反対にナミは、思い切り眉を顰めた。
「……何で名前を知ってるのよ。そこまで調べてから来たっていうの?」
「へ?やだなァ。昨日の明け方、会ったじゃないか。忘れちゃったのかい?」
「覚えてないわ」
 言い切るナミにサンジは怯みもしない。
 笑みを絶やさずに胸に手を当てる。
「そんなつれない態度をして見せなくても、おれはもう十分に貴女のトリコだって。あああ、怒った顔も美人だけれど、微笑む貴女の方が間違いなく美しいよ」
「くだらない事はいいから、説明してくれる?私はあんたなんかに会った覚えもないし、ましてや招待した記憶もないわよ。なのになんでウチに入り込んでるの」
 視線に氷の冷たさを含ませて、ナミが問う。
 その態度に、サンジは小さく苦笑してマントを肩に上げた。
 上等な仕立てのスーツの内ポケットからタバコの箱を取り出し、ナミに見せて笑う。
「タバコ。失礼しても?」
「返事」
 取りつく島も無いナミの返答に、肩を竦めてから箱を仕舞い直す。
 そして、ナミの瞳を柔らかく見つめ返し、困った様に微笑んだ。
「……昨日の夜」
 呟いて、サンジはふと遠い目をする。
「おれは同業者とちょっとやりあってね。負けはしなかったけど、まァ無様な事に、疲れと空腹で身動き取れなくなっちまったんだ」
 照れたような笑みを浮かべ、ちと魔力(ちから)を使いすぎたかな・と呟く。
「取りあえず、木陰で回復を待ったんだけど、中々戻らなくて。その内に空が明るくなって来て、夜が明けそうになって。このままじゃヤバいって本気で焦り出した」
 天を仰いで胸に手を当て、やはり芝居じみたポーズをとる。
「このまま夜が明けたら消えちまう・ってね。まァ今までの生き様に後悔はないし、沢山の美女と出会えたからそこは満足なんだけど、ただやっぱり、生涯で唯一の存在となるべき運命の女性との出会いを果していないって事だけはどうしても心残りだったんだよなァ。彼女にとってみても、このおれと出会っていないって事は、間違いなく人生最大の不幸に違いないし、それに」
「次」
 感慨に耽るサンジに容赦なくナミが先を要求する。
 独白の腰を折られたサンジは、一瞬、間の抜けた顔をしたが、直ぐ気を取り直した。
「失礼。ナミさんとの出会いだったね。そう、あれは正に運命だった」
「御託はいいからさっさと話して」
 また長くなりそうだ・と察したナミが先手を打って牽制する。
 それでもサンジはうっとりとした眼差しで胸の前で手を組み合わせた。
「夜明けも近付き、もうこれまでか・と思った時に、おれの前に現れたのが、ナミさん、貴女だった」
 その時の事を思い出したのか、サンジの頬がほんのりと色付く。
「……美しかったなァ。夜明け近い黄金色の空を背に立つ貴女は、本当に綺麗だった。さながら美の女神が目の前に現れたかと勘違いしてしまうぐらい美しかった。このままでは灰になって消えてしまうと解っていても、神々しい美しさに包まれた貴女を見ていたい・と、おれはそう思ったよ。いや、最期の瞬間に、こんなにも美しいものが見られるなら本望だ・とすらね」
 夢見るような目つきで語るサンジの喉元に、ナミは手にした棒を突きつけた。
 そのまま怒気全開の視線で睨みつける。
「…………続きを話せって言わなかった?」
「仰せのままに、レディ」
 殺気と紙一重の気配に額に汗を滲ませながら、サンジは両手を上げて答える。
 ナミが喉元から棒を避けてくれるのを待って、一息吐いて。
 それからサンジは、おもむろに片手を胸に当ててナミにそっと頭を下げた。
「ナミさん……貴女はおれの命の恩人なんだよ?木陰で身動き取れずにいるおれを見ても、貴女は怯えて逃げもせず、追い払おうともしないでくれたんだ」
 そう言ってナミに微笑みかける。
 ナミは僅かに眉を顰め、それから小さく声を上げた。
「……もしかして」
 その反応に、サンジの顔が輝く。
 満面の笑みを浮かべて、大きく両手を広げた。
「思い出してくれたかい?!本当に運命的な出会いだったよなァ!!おれが吸血鬼だってだけで逃げる人も多いってのに、貴女はおれを嫌がるどころか、おれが空腹だって解ると、その美しい手に持っていたみかんをそっと差し出してくれたんだ!そう、あれは正に」
 喜びを大げさな身振りで語り始めたその時。


「あの、浮浪者?!!あれ、あんただったの?!!!」


 ナミが唖然として言い放った一言に、サンジは思い切り頭から転げていた。
 ぶっ倒れて痙攣しているサンジに目もくれずに、ナミは、あの小汚い男ね・と、納得したように呟いて。
 それから倒れたままのサンジを手にした棒で容赦なく突ついた。
「で?あの浮浪者があんただったって事は解ったわ」
「ふ、浮浪者って…………ナミさん、それはちょっとあんまりすぎじゃ……」
「だって泥まみれだったんだもの。服もあちこち破れてたし。しょうがないじゃない」
 靴も脱げてなかった?と続ける。
 サンジはなんとか立ち上がると、歪んでしまった服装を正した。
 そして、改めて一息吐いて。
「それでも、例えおれを浮浪者だって勘違いしてても、貴女は慈悲をかけてくれた。そうだろう?」
「人んちの庭先で倒れていたら迷惑だからよ」
 顔を覗き込むサンジを棒で小突く。
 それでもサンジは怯まない。
「それに、貴女がくれたみかんは極上の味だった。程よい酸味と甘みのコラボレーション。瑞々しく張りがあって、一口毎に魂の奥底まで満たされる様な芳醇な味わいだった。それだけじゃない、丁寧に丹誠込めて作られた物にだけ宿る、暖かな力に満ちていたんだ。だから瀕死だったおれがすぐに回復出来たんだよ。あれは間違いなく、貴女からおれへの愛が詰まっ」
「ベルメールさんの為に作ったみかんだからに決まってるじゃない」
 ぴしゃりと言い切って、ナミはサンジに棒を突きつける。
 そのまま冷気の篭った声で言い放つ。
「それで何?礼を言うためだけに不法侵入したって言うの?招待もしてない家によく入り込めたわね」
 その言葉に、サンジはちょっと驚いた顔を見せた。
「招待してくれたじゃないか」
 そう言われて、ナミは顔を引き攣らせる。
「冗談じゃないわ、いつしたっていうの。そんな覚えは無いわよ」
 睨みつけて来るナミに、サンジはにっこりと笑って。
 そうして言ったのだ。



「おれがゼヒともお礼をしたい・って言ったら、好きな時に来て・って言ってくれただろう」



 その言葉に、ナミは唖然としてから、慌てて怒鳴った。
「ちょっと!!!なに、都合良く脚色してるのよッ!!!私は、好きにすれば・って言ったのよ!!!!」
 怒鳴られても今度は動じずに、サンジは嬉しそうに相好を崩す。
「そう、吸血鬼のおれを気遣って、好きな時に来てもいい・って言ってくれたんだろぅ〜〜〜。ホント、優しいよなァ、ナミさんは」
「だから、違うって言うの!!!人の話を聞きなさいよねッ!!!!」
「そんな照れなくたっていいんだぜ〜?そりゃあ、先触れもなく夜中に訪ねて来たのは悪かったと思ってるけどさ、でもこれもナミさんへの溢れる情熱が抑えられなかったからなんだし、それだけおれの愛は」
「……っいい加減に、しなさいッ!!!!」
 とうとう限界に達したナミが怒鳴りつけると同時に、手にした袋の中から小さな玉を取り出してサンジに投げつけた。
 玉は勢いよくサンジにぶつかると、次の瞬間、凄まじい電撃を放ったのだ。
「ぅげええぇえッ?!!!」
 その衝撃にサンジが絶叫をあげる。
 ナミは冷めた目で見遣って、ふん・と鼻を鳴らした。
 けれど、電撃が収まってもサンジが倒れずに立ち尽くしているのを見て、僅かに顔色を変えた。
 サンジは呆然としていて、所々焦げてはいるけれど、気を失う事なく立ち尽くしている。
 それを見てナミは袋の中を探り直した。
 見据える瞳に力が籠る。
 だがサンジは気付いた風もなく、煙を吐き出すと驚いた目でナミを見つめた。
「……魔道具、持ってるんだ」
「当然でしょ?女の1人暮しなのよ、護身用具は揃えてるわ」
 そう言って、今度は違う色の玉を取り出す。
「ザコだと思ってた。もっと強いのじゃないと撃退できないわね」
「ぃいッ?!!ちょ、ちょっと待った!!!そこまで警戒しなくてもいいだろう?!!」
 ナミが取り出した玉に篭る魔力を感じて、サンジは慌てて両手を振る。
 その様子を憮然と眺めて、ナミは冷たく言い放った。
「吸血鬼相手に警戒するなっていう方が無理でしょ」
 冷たく見据えられて、サンジは困った顔をする。
「別に、ちょっと血を吸うだけだろ?ああ、もしかして、ヘンな迷信を信じてるのか?吸血鬼に血を吸われたら、自分も吸血鬼になっちまう・とか、血を吸い尽くされて死んじまう・とか。それって低級なヤツらの仕業なんだぜ?おれたちは」
「知ってるわ。クラスの低い吸血鬼に血を吸われると、ソイツの魔力が体内に逆流して異形のものに変化しちゃうんでしょ?そうでなかったら、加減が解らずに血を全部吸い尽くされたりするんでしょう?」
「あ、なんだ、知ってるのか。それなら」
 ナミの言葉にサンジは嬉しそうに顔を輝かせた。
 けれどナミは、そんな事は構いもしないで、先を続ける。
「クラスの高い吸血鬼なら、噛み痕も残さないし血も大量に吸わない。それに、術をかけてから吸うから、大抵の人は血を吸われた事自体に気付いてもいないって。精々、ちょっと身体がだるいとか、そんな程度の後遺症しか残らないって」
「うーん、惜しいトコだな。身体に負担を残しちまってるんなら、ソイツはまだ中位クラスだ」
 ナミの台詞にサンジは満足げに頷くと、補足を入れた。
「おれ達上位クラスになると、一切の痕跡は残さねェんだ。それどころか逆に、おれ達の魔力で身体が楽になったり、一時的に肌が綺麗になったりするんだぜ?」
 そう言うと、ナミの顔を覗き込んで、口の端に笑みを乗せる。
「だから、定期的に吸血鬼に来てもらって若さを保っているご婦人もいるぐれェなんだ」
 笑みとともに言われた台詞を、ナミはあっさりとはね除けた。
「あ、そ。私はまだ十分若いしキレイだから、そんなの必要ないわよ」
「そりゃあ、もちろん!!ナミさんはそのままでも申し分無いぐらい美しいさ〜〜!!!」
 サンジも笑み砕けて、ナミの前で両手を組み合わせる。
 それをナミは棒で押しのけた。
「じゃあ、私に吸血鬼が必要ないっていうのも解ったわよね。帰って」
 それでも、棒で押しのけられながらもサンジはナミへと手を伸ばした。
「あああ、そんなつれないナミさんもステキだーーー。でも違うんだよ、ナミさん。おれはナミさんに契約とか美の提供とか、そんなつもりで来たんじゃないんだよ」
「……血を吸いに来たんでしょ?」
「そう!その通り!!おれは貴女を一目見たその時から、貴女のトリコ。恋の奴隷。ただ一口、その芳醇な血を頂ければそれで満足だとそう思って」
 サンジがそこまで言った時、ナミはそこで打ち切る様に言い放ったのだ。

 たった一言。









「お断り」












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ちょこっと一言
 サンジくんは古式な吸血鬼なので、招待されてない家には入れません。あと『魔道具』は、読んで字のごとく、魔力の篭った道具の事。大抵の物は1度使えば壊れてしまいます。



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