「……やられた、わね」 砂塵が治まり、飛び去った飛竜の影さえも見えなくなった頃、女が悔し気に呟いた。 「飛竜だと?!ナメた真似を……!」 男が拳を地面に叩き付けた。 その様子を横目に見て、女がキセルを取り出す。 クロコダイルは無言で飛竜が飛び去った後を見据えていた。 男がぎり・と歯を食いしばった時、不意に馬の嘶(いなな)きが響いた。 振り返ると、3頭の馬の内、1頭が地面に倒れ苦し気にもがいている。 もう1頭は既に立ち上がっており、逆に残りの1頭は倒れたまま身動き取らずに居た。 飛竜の風圧に吹き飛ばされた時のダメージだろう。 「戦場で『あれ』をやられた兵士達が大打撃を被る・というのが解るわね」 「……何を呑気な事を言っているんだ、ポーラ」 紫煙を吐き出しながら感心した様に言う女に、男が剣呑な視線を寄越す。 その視線に笑みで応じ、ポーラは腕を組んだ。 「味方に引き入れればそれだけ心強いという事よ」 「フン。飛竜毎ならば、だな」 男がそう吐き捨てる。 それを見てポーラが小さく笑った。 「強情ね、ダズは。まぁ、年下のお兄さんに斬られた悔しさが消えないのは解るけド?」 「…………何が言いたい」 額に青筋を立てて唸る男に、ポーラは小さく溜息を吐いて視線を向けた。 視線がぶつかり合い、険悪な雰囲気が間に満ちる。 一触即発の気配を、クロコダイルが一蹴した。 「いい加減にしろ、お前ら」 短い一言に、2人は従う。ダズは1歩下がり、ポーラは軽く頭を下げた。 クロコダイルは振り返りもせずに空を見据えている。 先程の険悪な雰囲気こそ消えたが、まだ辺りには緊張が漂っていた。 物言わない背に、確かに漂う怒りの気配。 それを感じて、2人は共に息を潜めた。 静寂を破ったのは、近づいてくる馬車の音だった。 ポーラが振り返ると、四頭立ての馬車が近づいてくる所だった。 馭者台に座るのは、黒髪の美女。白のローブを纏い、帽子を目深に被っている。 特に焦る様子もなく近づいてくる馬車へ、クロコダイルが声をかけた。 「ニコ・ロビンか」 「ええ。お疲れさまでした、ボス」 未だ険を孕んだ声に、ロビンは動じもせずに答える。 「あの子の身柄を押さえられれば、彼に牽制をかけるいい材料になると思ったのだけれど……逃げられてしまったわね」 その言葉にクロコダイルは鼻で笑う。 「手はまだ幾らでもある。最終的にヤツの身柄を押さえられればそれでいい」 懐から新しい葉巻を取り出し銜えた。 「もちろん、飛竜共々手に入れる。竜騎士1人の戦力は1軍に匹敵すると言われてるからな。それに」 葉巻に火を点け、深く吸い込む。 ゆっくりと煙を吐き出しながら、その口元が笑みの形に歪んだ。 野心を剥き出しにした笑みの形に。 「2年前の1件で、ヤツはアラバスタ軍部からかなりの支持を得ている。娘を助ける為にロクな事が出来なかったコブラより、あの小僧の手助けをし、実質的な指揮官だったヤツの方が支持されるのは当然だろう」 空の彼方にその声は届かない。 届けばゾロは、思い切り不機嫌な顔で否定しただろう。 ビビを助ける為に奔走したのはルフィと友人達であり、それはコブラの全面的な援助無しには成し遂げられなかった事だ。 ゾロはあくまでも、彼らの手助けをしたに過ぎないのだから。 「ヤツの煽動があればアラバスタ国軍をほぼ全て離反させる事が可能だ。おれに必要なのは、まずは力だからな」 クロコダイルはゆっくりとその手を持ち上げる。 歪んだ笑みで前を睨み据えながら。 「この国は布石に過ぎねェ。まずはこの国の軍事力を。そして、その軍事力をもって列国全てを支配下に治める」 持ち上げた手を、高々と空へ突き上げて。 そして、握りしめた。 野望をその手に掴み取ろうと言うかの様に。 「史上、誰もなし得なかった統一国家を、このおれが手に入れてみせる」 その宣言を天地は物言わず受け止めた。 故にそれが、賛同なのか拒絶なのかは判断する事は出来ず。 それでも、沈黙を護る世界へと宣誓は為される。 その行く末は、未だ誰にも計り知れないままに。 虚空へと吹き抜ける風は、黙して真意を語らなかった。 「では、砦に戻って次の作戦を練りましょうか」 ロビンが静かに3人を促す。 馬車の扉を開けると、クロコダイルが笑みを浮かべたまま身をひるがえした。 ポーラがまだ起き上がれずにいる馬の方へと顔を向ける。 「馬は?」 ロビンとダズが視線を向ける中。 クロコダイルは一瞥もせずに言った。 「無事なヤツ以外は処分しろ」 その声にロビンが微かに眉をひそめる。 「手当をすれば、まだ乗れるのではなくて?」 「使い物にならなくなった駒に用はねェ」 躊躇もせずにそう言い切る。 その返事にロビンは口を噤んだ。 ポーラもそれ以上何も言わずにクロコダイルに続く。 ダズが剣を抜いて、馬の方へと歩み寄った。 その様子に小さく息を吐いて、ロビンは馭者台の方へと向き直る。 馬車に乗り込みながら更にクロコダイルが言い放つ言葉が、その背にぶつかった。 「ロロノアもだ。従わなければ始末する」 その声に、ほんの一瞬だけ、ロビンの手が止まった。 背後で馬の鋭い嘶きが響いた。 断末魔の絶叫に3人は振り返らない。 程なく、剣がもう1頭の馬の首を落とす音が響く。 それすらも、馬車の扉が閉まる音に掻き消された。 ロビンは馭者台に座り、手綱を取る。 歩み寄ってくる蹄の音にちらりとだけ視線を向けて。 そして、無言のまま、手綱を打ち鳴らした。 その音を受けて、馬車は走り出す。 ダズを乗せた馬が、それに続いた。 やがて、土煙が収まり、辺りを再び静寂が支配する。 倒れ伏した2頭の馬に、鳥と、次いで獣達が集まって来るのは、その少し後だった。 そして、遥か高空では。 飛竜が数度羽ばたき、安定した気流に乗るのを待ってから、ルフィは縄梯子をよじ上り始めた。 羽ばたいている最中の縄梯子は不安定で振り落とされる可能性もあるので、気流に乗るまではしがみついている方が賢明なのだ。 それでも滑空する身体に叩き付けられる強風に煽られながら梯子を上る。 飛び乗った時に首の後ろへずり落ちた帽子が背中を叩いた。 数段上った所で背に乗るゾロの姿を認め、ルフィは瞳を輝かせた。 「ゾロ!珍しいな、軍装なんて!」 人間で言うならば肩の位置に置かれた鞍の上から見下ろして、ゾロが苦笑した。 黒く染められた革製の内部装甲にやはり黒のコートを纏い、肩から胸までを覆う白銀の外装甲冑を身に着けて。 兜・篭手・脛当ても全て甲冑に合わせた白銀。 漆黒と白銀は、アラバスタ国軍の中でも竜騎士だけが纏える色彩だった。 尤も、ゾロは正式には竜騎士ではないのだが。 右手で手綱を取り、左手で兜の額当てを引き上げてから、その手をルフィへと伸ばす。 「コイツの飛行訓練中なんだよ。ホラ、さっさと上がれ」 「そっか。どうりで」 飛竜の飛行訓練は実戦と同じ装備を着けて行う。戦場で背負う重量に慣れてもらう為だ。 それ以外の時のゾロは、風避けのコートだけを羽織った出で立ちで飛竜を駆る事が多かった。 ここまで正式な軍装姿は、訓練中だろうとまず滅多に拝めないのである。 理由を訊けば答えは2つだけだった。曰く、「面倒くせェ」か「鬱陶しい」。 もうけ・と笑いながら上って来るルフィの腕を掴んで鞍へと引き上げ、ゾロは軽くその頭を叩いた。 当然だが実戦仕様の鞍は1人乗りである。ルフィを座らせてゾロは鐙(あぶみ)に足を掛け立ち上がった。 ルフィも慣れた手付きで転落防止用のベルトを腰に巻き付け、縄梯子を巻き上げる。 その様子を見て、ゾロは視線を荒野へと転じた。 「今の……クロコダイルか?」 険を孕んだ視線が山岳地の1点を真直ぐに見据えた。 耳元で風を切る音。コートがはためく。その音が大きく響く。 肩越しに振り返りゾロを仰ぎ見て、ルフィは頷いた。 「そうだ」 返答は短く。 けれど、それが全てで。 受けたゾロが片方の口の端を僅かに引き上げた。 「ヘェ。……あれだけブッ潰したのに、まだ懲りねェのかよ」 「そうだな。あと、アイツらもいたぞ。タラコ唇の無表情なヤツと、クネクネ歩く女」 「あー…。まぁ、ザコはいい」 一瞬返答に詰まった所を見ると、ゾロの印象には残らなかったらしい。 ルフィは小さく笑うと、改めて声を掛けた。 「気を付けろよ、ゾロ」 「は?」 突然話を向けられて、ゾロが眉間を寄せる。 それから怪訝そうに首を捻った。 「まァ逆恨みぐらいは慣れてるけどよ」 見当違いの返事をするゾロに、ルフィの視線が鋭くなる。 「そうじゃねェよ。アイツ、ゾロを狙ってんだ、だから気を付けろって」 「はァ?」 ゾロが眉を寄せ口元を歪める。 どうやら本当に、復讐の意味しか思いつかないらしい。 「だから、おれがアイツの左腕を落としたから、その腹いせだろ?」 「そうじゃねェって。そういう意味で狙ってるんじゃなくて、ゾロを自分の方に引き込むつもりなんだよ。おれに、ゾロを寄越せ・って言いやがったんだぞ」 「はぁ?!」 今度こそ意味を正確に捉え、ゾロが顎を落とした。 ルフィは口を尖らせてゾロを見上げている。 ゾロは呆れ返った表情で空を仰ぎ見て。 そして、吐き捨てた。 「くだらねェ」 言い切ったその一言に、ルフィは満面の笑みを浮かべた。 ソロは大仰に溜息を吐きながら、肩を落とす。 「…ったく。何であんな小物に付かなきゃならねェんだ。『契約』だってご免被るぞ、おれは」 「ししし!だよなー!」 予想通りの言葉が嬉しくて思わず足をバタつかせたら、すかさず頭を殴られた。 「蹴るな。ラゼルの気が散る」 「悪ィ。ふーん、ラゼルっていうのか、コイツ」 「……飛竜の名前ぐらい、覚えておけよな」 溜息と共に言われて、流石に返答に詰まる。 でも、ルフィにだって言い分はあるのだ。 恐る恐る、口を開く。 「……なんて名前?」 その問いに、キツく一瞥してからゾロは答えた。 「ラゼルディアルフィアスガイネル」 「長ッッ!!!!」 ゾロが一気に口にした名に、思わず率直な感想を叫んでしまった。 飛竜に与えられる名前は、何故だか皆とても長い。 色々と意味があるらしいが、そこまでとてもじゃないけれど覚えられなかった。 後ろで深く溜息を吐かれても、つい、情けない声が出る。 「何で飛竜の名前って長いんだよぉ。しかも何だか、長くなって来てねェ?レフトはもっと短かっただろ?」 「……レフティアーシスレヴァイジア。さして変わらねェよ」 「いやちょっと短い気がする」 「…………気のせいだ」 唸るルフィの髪を、ゾロは乱暴に掻き回した。 軽く1回叩いて、その手が離れる。 その感触にちょっと名残惜しい気持ちが湧いた。 初めて会った時も、こんな風に頭を撫でてくれた。 年上の友人の、大きくて力強くて、そして優しい手。 その手が少し乱暴に頭を撫でる。 その仕草は、初めて会った時からずっと、ルフィの気に入りの1つだった。 肩越しに見上げれば、自分を見る色の薄い双瞳に出会う。 歯を見せて笑うと、怪訝そうに首を傾げた。 それでもルフィは笑う。 背中越しの温もりが頼もしかった。 「頼りにしてるぞ、ゾロ」 真直ぐに見つめて、そうとだけ言う。 短い言葉の真意を、ゾロは直ぐに汲んでくれる。 口の片端を引き上げる様にして笑う。 自負に満ちたこの笑みも、大好きだった。 「当然だろ」 返す言葉も短く。 尊大な程の自信を覗かせて。 それが嬉しくて、また笑った。 「さて・と。さっきも言ったが、飛行訓練の途中なんだ。悪ィが付き合ってくれ」 「おう、いいぞー!」 拳を振り上げて答えると、背中から笑みが返った。 もう1度、軽くポンと頭を叩かれて。 その手が手綱を取った。 ゾロが引くと、飛竜が大きくその翼を広げる。 吹き付ける風を捉えて、その身体が弧を描く。 ゆっくりと風を掴んで旋回して。 そして。 「行け!!!!」 号令と共に、その身体をひるがえした。 風を捉え。 空を背負って。 誰よりも自由な翼を羽ばたかせて。 |