吹き抜ける風が、徐々に胸中の炎を宥めて行く。 怒りを解く必要は無かったが、怒りのままに振る舞う事は愚作だった。 幾らルフィでも、そのぐらいの知恵は回る。 行方を眩ませていた本人がわざわざ出て来てくれたのだ。 その目的は知っておくべきだろう。 怒りを消す事は無く。 だが静かにその胸に秘めて。 ルフィはクロコダイルを見据えた。 馬が足を止める頃には、その態度は平静なものになっていた。 ただ、瞳に籠る敵意だけは消えなかったけれど。 「何の用だ?」 吹き抜ける風を受け止めて、ルフィが恐れげも無く問う。 その声に馬上の女が小さく口笛を吹いた。 「おれに用なんだろ?隊商を襲う気ならこんな王都の近くまで付いて来ないもんな」 あんなあからさまな気配に気付かない筈が無い。 言外の意味を汲み取ったらしく、反対側の男が眉根を寄せた。 「おっさんたちに迷惑かけたくないから、わざわざ降りてやったんだぞ。ったく、王都まであと半日も無かったっていうのに」 ゆっくりとクロコダイルが馬を進めて来る。 馬上からルフィを見下ろす容赦の無い視線。 それをいっそ無表情に受け流してから、ルフィは顎を上げた。 見上げる視線に垣間見える、確かな余裕。 それが気に触った様だ。 馬をルフィの目の前で止め、視線に力を込めて見据える。 残りの2人が従う様に両脇へ進んだ。 それを気にも止めずにルフィは両手を腰に当てた。 「さっさと言え。まさか、またビビに手ェ出す気じゃねェだろうな。あれだけ叩き潰してやったって言うのによ」 「……フン。あんな小娘にもう用は無い」 クロコダイルがようやく口を開いた。煙を吐き出しながら言い捨てる。 その言葉にルフィは笑う。 「へェ?アラバスタを乗っ取ろうとしてまだ9歳のビビを攫ってヨメにしようとした男が、ねぇ」 嘲りにクロコダイルの額に青筋が浮かんだ。 一瞬にして高まる怒気に、それでもルフィは動じない。 「国を手に入れる為には、王家の娘を娶るのが1番の近道だ。だがもう、そんな回りくどい手は必要ねェからな」 「……って事は、まだこの国を狙ってるんだな?」 しかも、もっと乱暴な方法で。 その意志を読み取り、ルフィの瞳に力が籠る。 それには応えずにクロコダイルは言葉を続けた。 「おれの目的はあの小娘でも、ましてやお前でもねぇ。……お前が側に置いている男だ」 「男?誰だよ」 ルフィは眉を寄せた。友人も知り合いも一杯居る。取り立てて誰かだけを側に置いているつもりは無い。 首すら捻るその態度に、クロコダイルの口元が歪んだ。 「価値も解らずに側に置いているのか。じゃあ尚更、テメェには勿体ねェな。おれに寄越せ。おれの方がお前なんぞよりあの男を有効に使える」 「だから誰の事だよ」 軽く口を尖らせて言うルフィに、側の男の方が口を開いた。大柄な体躯に表情の読み取れない顔立ち。その顔に、一瞬だけ走った怒気にも似た色。 「……ロロノア、だ」 その名を口にした瞬間、男の顔が奇妙に歪んだ。 「ゾロ?」 ルフィが軽く目を眇めた。驚きよりも何処か、不機嫌さが目立つ顔で。 その表情をどう受け止めたのか、クロコダイルが口元に見下した様な笑みを作る。 「そうだ。あの、ロロノアの一族の1人。表向きはコブラが雇った事になっているが、実質的な契約主はお前だろう」 「一体、どんな条件を出したのかは知らないけど、アナタみたいな価値の解らないボウヤが雇うには勿体ない程の人材よ」 「へー」 女の言葉にルフィは興味無さそうに生返事をする。前の開いたマントの陰からのぞく見事なプロポーションと、キツイ化粧。美人と呼ぶに値する容姿だが、それすらもルフィの興味を引かなかったが。 ルフィの反応を強がりと受け止めて、女がくすくすと笑った。 男は反対に表情に不快さを滲ませ、ルフィを見据え口を開いた。 「戦場では名の通った傭兵の一族だ。2年前、おれ達がお前らのような騎士団気取りのガキどもに遅れを取ったのも、あの男の力添えがあったからだろう」 「契約には絶対、依頼は完璧にこなす。一線級の戦士であり一流の用兵家。戦略にも明るく政戦にさえ力となる。そして、一度忠誠を誓えば、生涯決して違える事無くそれを貫くと言うわ。だからどんな国の王族も貴族も、ロロノアを欲しがるのよ。ヘタな傭兵団を雇うよりもロロノアを1人手に入れる方が、ずっと利用価値があるから」 女がそう言い切って、また笑う。 クロコダイルはゆっくりと身を屈めると、ルフィに葉巻の煙を吹きかけた。 「てめぇがどれ程、身の程知らずなマネをしてるか解ったか。あの男はおれの配下に貰う。その方がヤツの為にもなるだろうよ」 ルフィを見据えると、見下し切った表情で笑う。 眉をひそめるルフィに、クロコダイルは、再度、言い放った。 「ロロノア・ゾロを、おれに寄越せ」 威圧的な口調。 高圧的な態度。 全てが自分に従うと信じ切っている人間の取る行動。 それらを不機嫌な顔で見据えて。 そしてルフィは。 思い切れ呆れた顔で溜息を吐いた。 「バカか、お前」 あっさりと言い捨てたその口調に、クロコダイルが目を剥いた。 「何だと……?!」 怒りを露にするその顔に、更にルフィは言い放つ。 「バカじゃなかったらアホだろ。ゾロはお前みたいなヤツとは絶対に手を組まねェよ」 「てめぇ……ッ!!!」 ぎり・とクロコダイルが歯ぎしりする音が響く。 対照的にルフィは冷め切った眼差しでクロコダイルを見上げた。 乾いた風が砂塵を巻き上げて吹き抜ける。 ルフィのローブの裾が大きくはためいた。 「ゾロは自分を欲しがるヤツとは契約しねェよ。当然だろ?あんな、自由で真直ぐなヤツが、自分を物扱いするようなヤツに膝を折るワケがねェ」 むしろ淡々と話すその口調に、脇に立つ男が眉を跳ね上げた。逆隣で女は不快そうに目を眇める。 ルフィの視線はクロコダイルを縫い止めたまま。 「寄越せとか、貰うとか。ましてや使うなんて言ってるヤツに、ゾロは絶対に従わねェ。だから、そんな事を口にしてる段階で、お前にはゾロと交渉する権利はねェよ」 話すら聞いてもらえないだろうな・と付け加えて、ルフィは口を閉ざした。 見上げる視線には、既に侮蔑にも近い色が籠っている。 その態度に、とうとうクロコダイルの怒りが爆発した。 怒号と共に左腕のかぎ爪を一閃させ、ルフィへと斬り掛かる。 「じゃあ、てめェはどうなんだ!!!」 その切っ先から飛び退いて身を躱すルフィへ、クロコダイルは更に馬を突進させる。 「ロロノアを雇うのに、幾ら払ったんだ?!!それとも泣き落としか!!!そうでもなきゃあ、てめェみたいな小僧があの『絶対の剣』を雇える訳がねェ!!!!」 踏みつけようとする蹄から飛び退き、ルフィは言い放った。 クロコダイルが耳を疑いたくなる様な一言を。 「おれはゾロを雇ったワケじゃねェ」 「……ふ、ざけるなァッ!!!!」 驚愕に動きを止めたのは一瞬。 次の瞬間、クロコダイルは再び怒号と共に馬を突進させた。 襲いかかるかぎ爪からまたもや身を躱し、ルフィは距離を取る。 「ふざけてねェよ。もともとゾロは友達だ。友達が困ってたから力を貸してくれた。それだけだぞ」 クロコダイルは馬を反転させて、銜えたままだった葉巻を投げ捨てた。 殺気の籠った視線でルフィを見据える。 その視線を真っ正面から受け止めて、ルフィは立ち尽くし。 そして、その口元に笑み浮かべた。 「それにおれは、ゾロを側に置いてるつもりもねェ。ゾロは自由だ。ゾロを手に入れるなんて、風を捕まえようとしてるようなもんだ」 鋭く見据える瞳と。 挑む様に浮かんだ笑みと。 不敵なまでの表情を浮かべて。 ルフィは真直ぐにその背筋を伸ばした。 クロコダイルと対峙するように。 「人も国も、物扱いしてるお前なんかに、ゾロは絶対に従わねェよ」 言い切ったその言葉に、クロコダイルが目を剥く。 そして、怒りのままにまた襲いかかろうとした、その時。 不意にルフィが空を仰ぎ見た。 満面の笑みを浮かべて。 真直ぐに遥かな高みを。 「そうだよな、ゾロ!!!!」 遥か高空へと向けられた笑み。 突然の事に思わず動きを止めたクロコダイルの耳に、風切音が響く。 「……ッ!!!」 その意味を捉え、弾かれた様に振り返ったが。 その時には既に遅かった。 視界に飛び込むのは白銀の光。 青空を背負い、疾風の如く突っ込んでくる白い影。 それは、戦場に於いては『圧倒的な死』をも意味する存在。 陽光を弾く白銀の甲冑を纏い。 翼長12Mの長大な翼を広げて。 高空から凄まじい勢いで地面を目掛けて突進してくる飛竜の姿だった。 その圧倒的な力に、思わず身を竦ませる3人に対して。 ルフィだけが、その飛竜の背に乗るゾロの目を捉えていた。 飛竜の動きを捉えたまま、ルフィは地面に身を伏せる。 同時に、クロコダイル達が我に返ったが、既に遅かった。 「バースト!!!!」 ゾロの声に飛竜が激突すれすれで身を翻し、翼と尾を地面へと振り下ろした。 爆撃にも匹敵する勢いで風圧が地面に叩き付けられ、轟音と共に吹き飛んだ砂塵と礫がクロコダイル達を吹き飛ばす。 「きゃあッッ!!!」 「グゥ…ッ!!!!」 地面に叩き付けられた直後、クロコダイルの視界の中でルフィが跳ね起きるのが見えた。 「……しまった!!」 慌てて起き上がろうとしたが、既に遅く。 駆け出したルフィの方へと飛竜が真直ぐに滑空してくる。 「来い!!!」 「おう!!!」 ゾロが放り投げた縄梯子にルフィが飛びつく。 飛竜が飛び去る、一瞬の出来事だった。 次の瞬間、再び飛竜が大きく羽ばたき、その身体が勢い良く上昇する。 瞬く間に高空へと飛び去る影を、ただ見送るしかなかった。 |