ハピネス 前編
  



 <クーロン>の裏通りには、今日も小雨が降っていた。
 晴れる事の無い空から降る雨が、路地裏と古いビルをしっとりと濡らしていて。
 そして、例外無く、ヌサカーンの診療所にも降り注いでいた。


 その1角にある居住スペースの居間にルージュが入って来たのは、お昼にはまだちょっと早い様な時間だった。


「つまんないー」
 軽く頬を膨らませてそう呟きながら入って来たルージュを、ヌサカーンは軽く一瞥して。
 そして、苦笑しながら立ち上がった。
 ルージュはソファへと歩み寄ると、ぽすん・と座り込む。
 膝に頬杖をし、頬を膨らませて、むぅ・と唸る姿は幼気で。
 全身全霊で「むくれてます」と訴えている。
 その様子を視界の隅に捕らえながら、ヌサカーンはポットに新しい茶葉を入れた。
 宥める為には、美味しいお茶を提供するのが一番手っ取り早い。
「ブルーは?」
 湯の温度を確かめながらそう尋ねると、返って来るのは予想通りの言葉。
「まぁた本に掴まっちゃった。ホントにもぅ」
 足をバタバタさせながら答える姿に、どうしても苦笑してしまう。
 無類の読書家であるブルーが、本に没頭するあまり周りを忘れてしまうという事は、良くある事だったが。
「ブルーが本の虫なのは知ってるけどさー、僕と一緒の時ぐらいは掴まらなくてもいいのにさー」
 何時もの様に、ヌサカーンの診療所の書庫に来て。
 何時もと変わらずに、本を読みふけっている内に、周囲を忘れたのだろう。
 何時もの事なのだが、それでもルージュには面白く無いようだ。
 ヌサカーンは特に応えずに、ポットに湯を注いだ。
 ルージュがブツブツと文句を言う声が、古びたテーブルに降り積もって行く。
 それを笑み一つで聞き流して、ヌサカーンは砂時計が落ち切るのを待って、カップに紅茶を注いだ。
 ソーサーを持ち、ルージュへと差し出す。
「あれは何時もああだろう。今さら気にしても始まらんと思うがね?」
「……そー言っちゃったらそれまでなんだけどさぁ」
 口を尖らせながら、カップを受け取る。
 紅茶を一口飲んで、ようやく息を吐いた。
 そして、ようやくある事に気付く。

「…………?なんか、いい香りしない?」

 そう言って、くんくんと鼻を鳴らす。
 確かに漂うのは、バニラの甘い香り。
 不思議に思って首を傾げた時、居間に続く台所の扉が開き、1人の少年が顔を覗かせた。
「あれ?ルージュさん、休憩ですかー?」
 一見すると15・6歳の普通の少年だが、頭の両側に生えた小さな羽根が、彼がモンスターのハーピーである事を物語っていた。
 彼は半年前からこの診療所に下宿している。
 医者になりたい・と思い故郷を旅立ったはいいが、何を間違えたがこの診療所の扉を叩いてしまい、そのままヌサカーンの助手として暮らしている。
 まあ、医学はきちんと学んでいるらしいし、それに幸い、この医者の解剖趣味にも染まらずに済んでいるようだ。
 頭の両脇の羽根をパタパタ動かしながら嬉しそうに笑って、居間へと入って来る。
 その手には、大きな皿の乗ったトレイを持っていた。
 いい香りの源は、どうやらこれだったらしい。
「良かったー。ちょうど、タルトが出来た所なんですよ、どうです?」
 にこにこと笑いながら差し出されたトレイに、ルージュが瞳を輝かせた。
「わあぁ!!嬉しい、食べるー!!美味しそう!!!」
 皿には直径8cm程の小さなタルトが並んでいる。クリームにストロベリーソースで模様を描き、苺が飾ってある。
 この少年、家事全般が得意でその上お菓子作りが趣味であり、双子が訪れる度にこうして何かしらの菓子を作ってくれていた。種族の9割近くが女性体というハーピーの中で育てば自然とそうなるのかもしれない。
 今日のお菓子は苺のタルト。ルージュには大好物の一つである。
 煎れてもらったばかりの紅茶にぴったりのお茶請けが出て来て、不機嫌も一気に吹っ飛んだ様だ。
 満面の笑顔で差し出される皿を受け取る。紅茶と並べて、いただきます・と弾んだ声で言って。
 そして、まずは一口。
 かじると同時に目を輝かせた。
 咀嚼して飲込む。
 それから、歓喜の声が溢れた。
「美味っしい〜〜〜〜!!!すっごい!!また、腕上げたねぇ!!!」
「わー!ルージュさんに褒められましたぁ!」
 ルージュに褒められて嬉しそうに両手と羽根を振り回す。
 ヌサカーンも一口食べて、満足げに頷いた。
「ブルーさんはまだ書庫ですか?届けましょうか?」
 少年がそう言って首を傾げた。
 その言葉にルージュは軽く口を尖らせる。
「ブルーは今、<シンロウ>第4王朝に行っちゃってるからいいよ」
「え?」
「……また今度は何の本に掴まっているのだ?」
 ルージュの言葉に少年が固まり、ヌサカーンも怪訝そうに尋ねる。
 ふぅ・と溜息を吐いて、ルージュは本のタイトルを口にした。
「……『メカ成体学の発展と<シンロウ>第4王朝の衰退に於ける疑惑』だって」
 そのタイトルに2人も思わず絶句した。少年の羽根も止まっている。
 ルージュが紅茶を啜る音が妙に大きく響いた。
 漸く金縛りの解けたヌサカーンが、重々しく溜息を吐く。
「…………何だって、そんな所に引っかかるのかね」
「……ブルーさん、博識ですねぇ」
 少年が微妙に的を外した感想を漏らして。
 それから改めてにっこり笑った。
「じゃあブルーさんの分は除けておきますね。後でお茶と一緒に持って行きます」
「うん。ごめんね、面倒かけて」
「いーですよぉ」
 笑顔でブルーの分を取り分ける少年からふと視線を外し、ルージュは気になっていた事を口にする。
「ねぇ、ところで、さ」
「はい?何ですか?」


「……何か、妙に沢山、ない?」


 そう言うルージュの視線は居間に続くキッチンへ向っている。
 扉が開いたままで中の様子が丸見えなのだが。
 そのキッチンには、確かに不自然なぐらい大量のタルトが並んでいる。
 少年は、あ・と呟くと照れ臭そうに笑った。
「あ、のですねー。4人分、作ろうと思ったんですよぉ」
「?うん、そうだね?」
 頭を掻きながら、妙に顔を赤くして少年が話し出す。
 ルージュは首を傾いでその言葉を聞く。
「で、本に載ってた分量の、4倍で作り始めたんです」
「うんうん」
「そうしたら、ですねぇ」
「うん?」
「その分量が、そもそも4人分だったものでぇ……」
「…………え?」
 ルージュが、思わず絶句した。
 ヌサカーンも動きを止めている。
 ハーピーの少年は顔を赤くして照れ笑い。

「……つま、り?」


「…………16人分、出来ちゃったんですよぉ」



 その状況に、流石の2人も石化せざるを得なかった。



「あ、あの、途中で何か多いなぁ・とは思ったんですよ。でもその頃にはちょっともう遅くって。で、結局、そのまま全部、作っちゃったんですけど…………やっぱり多過ぎましたか?」
「……お、おいしいけど、さすがにちょっとコレは」
 甘いもの大好きのルージュにとっても、多いと思える量だ。
 ヌサカーンは見事に固まっている。
 美味しいし、沢山食べられるのは確かに嬉しいが、けれど余りにも多すぎるのはどうだろう。
 沈黙してしまった2人を見て、少年は困った様に頬を掻く。
 休診日でなければ、患者に配る・という手段もあっただろうが。
 続く微妙な沈黙を、ルージュは手を打って破った。
「うん、そうだ!ねぇ先生、箱、ある?」
「箱かね?ああ、あるが……」
 突然話を振られ、驚いてからヌサカーンは頷いた。
 表情を輝かせるルージュに、ハーピーの少年も視線を向ける。
 そんな視線の中でルージュは、満面の笑みを見せて言った。
「僕、貰ってくよ。皆に配るから!!」
 その言葉に少年が瞳を見開いた。
 口元が嬉しそうに綻ぶ。
「本当ですかー?!」
「もちろん!エミリアのお店とヒューズのトコと、あとリュートのトコにも持ってくよ。みんな喜ぶよぉ!」
「わあぁ!!ありがとうございますー!!」
「いいよぉ。美味しい物はみんなで食べなくちゃね!」
 嬉しそうに礼を言う少年にルージュが全開の笑顔を向ける。
 それを見てヌサカーンも、納得した様に頷いて立ち上がった。
 さて・と声を掛けてルージュを振り返る。
 そして口にした事と言えば。



「臓器搬送に使った箱と疑似眼球が入っていた物と、あと培養細胞を入れる物とがあるが、どれにするかね?」



「普通のにしてッ!!!!」

 ルージュが間髪置かずにそう叫び返したのは、言うまでも無い。











 そして、ようやく出て来た「普通の箱」に、大量のタルトを詰め込んで。
 ルージュがヌサカーンの診療所を後にしたのは、30分程経ってからだった。
 満面の笑みを浮かべて、物凄く上機嫌で。
 嬉しそうにルージュは歩き出す。

 まずは最初の目的地。

 グラディウス経営のイタメシ屋に向って。


 まだ雨は降り続いていたけれど。
 そんな事はあまり気にならなかった。











 そう、この時は。






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