時の歯車 第2話 1



 飛竜は、憧れだった。
 幼い頃からずっと。
 自由に高空を舞うその翼に憧れていた。
 一緒にその背に乗せて欲しい・と何度もペルにせがんで、その度に断られて来た。
 申し訳無さそうに、少し寂し気に断るペルに、あまり無理強いも出来なかったけれど。
 乗せてもらえたのは、ほんの数回。
 それも、誕生日などの特別な時にだけだった。



 それなのに。



 窓の外、遥か彼方にその姿を見つけたのは、ほんの偶然。
 それでも、思わずベッドから飛び降りていた。
 昨日まで熱もあったし、今日も午前中はリハビリをしていたので、午後からはベッドから降りない様に・と主治医には言われていたけれど、そんな事は頭から吹き飛んでいた。
 少しよろけながら、窓へと駆け寄る。
 その目の前で飛竜は大きく旋回し、城の外周を巡る様に飛んで行く。
 見開く瞳が、その背に乗る人物と会った。
 一瞬だったけれど、兜越しの瞳は間違いなく自分を捕らえていて。
「Mr.ブシドー?」
 その背に乗るのがゾロだ・と気付く。
 そして、同時に気付いてしまった。
 ゾロの前に、うずくまる様にして同乗する人物に。

 窓越しのその光景は、僅かな時間だったけれど。
 それでもはっきりとその視界には入っていた。

 飛竜が飛び去り、その姿が見えなくなっても暫く、窓に頬を押し当てて軌跡を追おうとしていたが。
 それももう無理だと解って、溜息を吐いて顔を離した。
 ガラス越しの青空に両手を付いて見つめて。
 そして、ふぅ・とその頬が膨らんだ。
 つまらなそうに。口を尖らせて。
 零れたのは、本音。


「………………ずるい」


 ガラスの中から、頬を膨らませた自分が見つめ返していた。






「まぁッ!!!ビビ!……様!!!」
 不意に響いた絶叫に、弾かれた様に振り返る。
 そこには驚いた顔で立ち尽くす侍女が1人。明るいオレンジ色の髪をきつく束ねて、大きな瞳を驚きに見開いている。顔立ちは美人と呼ぶに申し分無く、更に強い意志と気品すら感じさせた。
 その整った顔立ちに驚きが満ちていたのは、僅か一瞬。
 次の瞬間には、その柳眉を吊り上げてビビへと足早に駆け寄って来た。
 ビビは慌てて窓から両手を離す。
「あ、あのね、ナミさん、今……!」
「言い訳はあとで!今日はベッドから起きてはいけない・と先生から言われていたでしょう?!また熱が出たらどうなさいますの!!」
 そう怒鳴ってから、ナミは大きく3回、手を打ち鳴らした。
 その音に、すぐさま侍女達が集まって来る。
「はい、ナミ姉さん只今ー」
「いかがなさいましたか」
「あら!まぁ、ビビ様!!」
 ナミの隣に立つビビの姿に、侍女達は慌てて駆け寄って来た。
「まぁまぁ、なりませんよ、ビビ様!今日は安静にして頂かなくては……!」
「さ、ベッドにお戻り下さいませ」
 あっという間に侍女達に取り囲まれ、ビビは困った様にナミを仰ぎ見る。
 ナミは笑顔で首を振った。
 そして、ビビに顔を寄せる。
「お話はベッドに戻ってから。宜しいですね?」
 そう言ってから。
 ふと、その顔に笑みが浮かんだ。
 それは一瞬だったけれど、今まで見せていた侍女としての笑顔ではなく、友人としての顔であって。
 だから、ビビも引き下がる事にした。
 小さく頷くと、侍女達に促されるまま、ベッドに戻る。
 ナミが周りに幾つかの指示を出し、他の皆はそれに従う。

 ナミはまだ18歳の若さだったが、ビビの筆頭侍女を務めていた。
 元々、ビビの乳母の娘という事もあり、ナミは幼い頃からビビとは特に親しかった。
 5歳年上のため、ビビにとっては親友でもあり同時に姉の様な存在でもある。
 4年前の事件の時も、ビビと共に攫われ、最後まで身体を張って護り続けた。
 その功績もあって、筆頭侍女として取り上げられる事となったのである。
 ビビの周りには、ナミを初め年若い侍女が多く務めている。
 それは幼いビビへの配慮であると同時に、若年の筆頭侍女であるナミへの配慮でもあった。

 ビビがベッドへ戻る僅かの間に数人の侍女が手早くシーツを張り替えている。
 その間にも他の者達も手分けしてベッド周りを整えている。
 ベッドにビビが腰を降ろすと、侍女がその肩にうやうやしく上着を掛けた。
 ビビが笑みを返し一息吐いてから、他の侍女が温かなレモネードをそっと差し出す。
 受け取り礼を言って一口飲む。それを待ってからまた別の侍女が、おもむろにその髪を整え始めた。
 侍女達の動きは手早くそして無駄が無い。
 一連の流れる様な動きを笑顔で見ていたナミは、改めてビビへと視線を向けた。
「それにしても、どうなさったのですか?急に起き出したりなさって」
 向ける笑顔は侍女としての物だったけれど、その声に籠る友人としての気遣いを感じて、ビビは顔を上げた。
「あのね、ナミさん!飛竜が飛んでたのよ!」
「まぁ、飛竜が」
 笑顔になったビビに、ナミも笑みを返す。
 ビビの飛竜好きは城内では有名だ。
 そんなビビが飛竜の姿を見かけたのだから、思わず窓へ駆け寄ったのも納得だろう。
 ナミがそんな事を思っていると、ビビは一層嬉しそうに笑って。
「ラゼルディアルだったわ。Mr.ブシドーが乗ってたから訓練中だったのね、きっと」
「あら、閣下が。そうでしたの、今日は飛行訓練の日でいらしたのかしら」
 ビビが楽しそうに笑って話すから、ナミもつい笑みを浮かべていたのだけれど。
 その笑顔も、次の一言で思い切り引き攣る事になった。
 無邪気にビビが言った、その言葉に。

「それでね、ルフィさ…兄様も乗っていたの!!」

 何の含みも無く、むしろ楽し気に言われたその一言に。
 次の瞬間、音を立ててナミを取り巻く大気にヒビが入った。
 それはもう、殺気にも近い程の怒気を孕んで。





 ……何やらかしてくれるのよ、あのバカ王子ーーーーーーーーーーッ!!!!





 そんなナミの心の絶叫が、声に出なかったのは奇跡としか言いようがないだろう。

 余りの凄まじい怒気に、近くに居た侍女達は竦み上がり、運良く離れた場所に居た者達はそれでも飛び退きそうになった。
 一番間近にいたビビは、小さな悲鳴を押し殺して毛布にしがみつく。
 そしてそのまま、恐怖に固まってナミを見上げていた。
 ナミは立ち尽くしたまま、両手を固く握りしめている。
 小さく震える全身からは、堪え切れない怒りが目に見えない雷撃となって放たれているようだった。

 その状態で、誰もが身動き取れないまま、たっぷり10秒は時間が流れて。

 それから漸く。
 ナミの肩がぴくりと動いた。
 ゆっくりと吐き出される息。
 腹の奥底まで全部吐き切って。
 おもむろにナミは顔を上げた。
 何処からどう見ても完全に引き攣った笑顔を浮かべて。
「…………ま、あぁぁ、そーぅでしたのーーーーッ。それはそれは羨ましいお話でぇッ!」
「え、ええぇ、そ、そうなの兄様ってば」
 ナミの鬼気迫る笑顔にビビは内心悲鳴を上げた。
 他の侍女達も、慌てて仕事を再開する。
 そんな事を気にも止めずに、ナミはこめかみに青筋を立てながら笑う。
「そういえば殿下は、ここ暫く陛下のご命令で視察に出ておられたとかッ。では戻っていらしたのですねぇぇええ!!それはそれは、ご無事でなによりです事ぉッ!!」
 口元を引き攣らせながらそれでも笑顔と思しきものを浮かべるナミの表情は、周囲に恐怖を抱かせるには十分で。
 侍女達は完全に目を合わせない様にしながら、そそくさと仕事を続け。
 ビビは固まったまま必死でその恐怖をやり過ごそうとしていた。
「あああ、あの、ナミさんっ、あの、ね、私、ベツに何とも……!!」
 さっき「ずるい」と思った事も忘れて、ビビは懸命にルフィを擁護しようとしたが、ナミの迫力に押されて言葉が出て来ない。
 口元は引き攣り、こめかみには青筋が立ち、目は完全に座っており。
 そんな状態で笑顔を浮かべようとしても、失敗に終るのは当然なのだが。
 それすら考えつかないらしくナミは怒りの笑みを浮かべたまま、不意に手を打った。
「そーぉだわ、宜しければ殿下をお呼びして、旅のお話など聞かせて頂きましょうかッ!!!ええ、えぇ、そうですわね、それが宜しいですわねーーーッ!!!」
 そう言い放つと、ビビの両手をしっかりと握りしめて身を乗り出した。
 ビビは思わず引きそうになったが、ナミにがっちりと手を握られて、それも敵わず。
「え?!!う、ううん、私そこまでは……!」
「ビビ様も殿下にお会いしたいでしょう?!!そうですわよねッ?!!」
「ぇえ、と、あの……」
「…………そうですわよ、ね…?!!!」
「……ッ!!!は、はいッ!!!!」
 ナミに本気で凄まれて、反射的にビビは頷いてしまっていた。
 その返答にナミは満足げに頷くと、振り返り侍女達に声をかけた。
「誰か、ノジコに使いをお願い出来て?」
「……は、はいッナミ姉さん!!!」
「承知いたしました、只今ぁッ!!!」
 数名の侍女が飛び跳ねて返事し、そのまま慌ただしく手筈を整え出す。
 その様子をナミは、未だ怒りの修まり切らない表情で見据えていたが。
 やがて、ふと息を吐き出すと。
 先程よりは少しマシな笑顔でビビへと振り返った。
「さ、ビビ様は殿下がいらっしゃるまで、ゆっくりとお休み下さいませ」
「あ、のね……?ナミさん、私、本当に何とも思ってないのよ?」
 本音は嫉妬も少しはしたのだが。
 でも、あのナミの怒りを目の当たりにした今、それはどうでも良い事の様に思えて、ビビはなんとかルフィを庇おうとした。
 けれどナミは、そんな事は意にも介さず。
「あら、何のお話かしら?殿下とお会いになるのは、一月振りでしょう?それなのにお話の途中で具合が悪くなったりなどしたら、残念ではありませんか。ですから、今のうちにしっかりと休んでおかなくては。ね?」
 そう言って微笑む顔は、ようやく何時ものものに戻っていて。
 だからビビも、やっと安心して笑った。
「うん、解ったわ」
「それはなにより。……さ、お休みくださいませ」
「はぁい」
 ナミに促されてベッドに身体を横たえる。
 そっとシーツを引き上げ、優しく身体を包んでもらって。
 ようやくビビは人心地つく事が出来た。
 小さく息を吐いて、目を閉じる。
 その髪をナミが緩やかに撫でてくれるのを感じながら、浅い眠りに落ちそうになったその時。



「……殿下がいらしたら、たぁっぷりとお話を聞かせてもらいましょうね」



「…………ッ!!!!」
 その一言に、ナミの怒りが解けていないことを悟って。
 ビビは思わず跳ね起きそうになってしまった。
 それでも何とかその衝動を堪えていると。
 ゆっくりとその細い指先がビビの髪から離れて。
 ナミが何かを小声で呟きながら去って行くのを感じた。
 堪え切れなかった怒りの波動を残したままで。


 ナミが侍女達に指示を出して。
 侍女達がそれに応えて部屋を去り。
 やがて、ナミもその場を後にしてから。

 ビビは。


 独り、ベッドの中で謝り続けていた。





 ……ごめんなさい、ルフィさんーーーッ!!!!





 この後、間違いなくナミの怒りの標的にされるであろう異母兄の身を案じて。













 そのルフィは、というと。


 ゾロが開け放った扉の中から、沢山の視線が自分達に突き刺さるのを感じた。
 当然だろう。本来ならば国議中は誰であろうと国王の許可無く青金の間に立ち入る事は出来ない筈なのだから。
 禁忌を破って押し入って来た『侵入者』に向けられる視線は、想像の域を超えなかった。

「……なッ?!!」
 息を飲む気配。驚きに声すら出ない状況は僅かの間で。
 直ぐに怒気を孕んだ声が飛び交う。
「ぶ、無礼者!!陛下の許可無く、何の真似だ!!!」
「貴様……!!立場を弁えんか!!!」
「傭兵風情がこの様な場に立ち入るなど、非常識にも程があろう!!!」
 浴びせられる罵声をあっさりと受け流して、ゾロはルフィを担いだまま歩き出した。
 その後ろで衛視達が固まっている。彼らの役目はあくまでも『青金の間の入口』の警護。中には入れないのだ。
 ルフィは彼らに軽く手を振って戻る様に指示する。
 それでも顔を見合わせて戸惑っている衛視に、玉座の隣から声が掛かった。
「良い。配置に戻りたまえ」
 声をかけた男性は、顔立ちは柔和だが瞳に強い力を持ち、長く伸ばした髪を3段に分けて外側へと巻き込んでいる。この場にあってゾロ以外で唯一帯剣している理由は、彼が国王付きのインペリアル・ナイト(王族警護騎士)であるからだ。
 イガラムにそう言われて、衛視達は一瞬戸惑ったが、姿勢を正し最敬礼して扉を閉めた。
 だが当然、貴族達からは批判の声が上がる。
「イガラム殿?!!」
「しかし、それでは示しが……!!!」
「構わぬ。彼ならば問題ないであろう」
 再度そう言われ、列席していた貴族達も不承不承口を噤み出したが、それでも不満の声は完全に修まるものではなく。
 ゾロは気にも止めずに歩き続け、ルフィもその肩の上で素知らぬ顔をしている。貴族達の前でみっともなく暴れるような真似は、絶対に嫌だった。
 ここに列席している者の半数は、ビビの捜索に何も助力してくれなかった者達なのだ。
 そんな連中にわざわざ弱みを見せてやる必要など微塵も感じなかった。
 ゾロが通り過ぎた後に新たなざわめきが起きる。肩に担がれている人物が誰なのか気が付くからだろう。
 目を剥く者、唖然とする者、怒りを吹き上げる者、それらに混ざって苦笑する者と肩を竦める者。あるいは無反応を決め込む者。
 それらの反応が、2人に対する感情を示唆していいた。
「イガラム殿、こんな国王への礼儀すら知らんような傭兵如きに寛容過ぎないか」
 そのざわめきの中、不意に上座に着く大男が声を上げる。
 大柄な体躯に加え何より異様を放つのは、その右腕に仕込まれた大戦斧だった。右腕の肘から先が失われており、そこに巨大な戦斧が直に埋め込まれている。今は国王の御前という事もあり刃は綿を仕込んだ布で覆われているが、それでも振り回せばかなりの威力を発揮するだろう。
 男の声にルフィがむっとした顔をする。
 言い返そうかと口を開いた時、ふとゾロが嗤ったのを感じてその口を閉じた。
 見えはしなかったが、明らかにゾロは嗤っていた。大男を見据えて。
 完全に見下しきった笑みを浮かべ、嘲るように言い放つ。
「傭兵(おれたち)如きに、礼儀なんざあるわけねェだろ」
 言い切り、そしてあっさりと視線を逸らす。
 相手にするのも馬鹿馬鹿しい・といった風情で。
 その様子に、大男が目を剥き椅子を蹴って立ち上がる。
「貴様ァ…ッ!!!」
「止めたまえ、モーガン将軍」
 だがそれを玉座からの声が遮った。
 一瞬にして青金の間にいる全員が静まり返った。

 王たる者の言葉が持つ威力。

 その力を垣間見る瞬間であった。
 今まで散々文句を言い続けて来た貴族達が、一様に押し黙る。顔を顰め、青筋を立てながらであっても、王の言葉には従う。
 モーガンすら歯ぎしりをして黙り込み、駆け寄った従者が起こした椅子に座り直す。
 何人かが小さく安堵の息を吐き、力を抜く。
 安堵と怒りの入り乱れた気配の中をゾロは玉座の前まで進み出た。
 玉座には癖のある豊かな黒髪を伸ばし、綺麗に揃えられた髭を蓄えた男性が腰を降ろしている。鋭い風貌に隠し様も無い王族としての威厳と品格。ただ座しているだけで他者を圧倒する風格。
 アラバスタ王国18代国王ネフェルタリ・コブラその人である。
「皆もそのままに。……さて、どうされたかね、ロロノア殿」
 コブラの前で立ち止まるとゾロは、初めて踵を合わせ背筋を真直ぐに伸ばした。
 そして、左肩にルフィを抱えたままではあったが、右手を胸に当て静かに上体を折る。
 他者には決して取らない最敬礼。
 『契約主』であるコブラに対してのみ、ゾロは敬意を払う。
 それは自分に批判的な貴族達への当てつけでもあったが。
「火急の用件につき、軍装のままにて失礼します」
 声音さえも静かで落ち着いたものである。
 貴族達に対する時との態度の違いにルフィは小さく笑った。
 その次の瞬間、ゾロの肩からひょい・と降ろされて。
 そして両肩を掴まれるとくるり・と振り向かされた。
 目の前には、半ば唖然としたコブラの顔。
「ガルドア荒原地帯にて御子息を保護しましたので、急ぎお連れ致しました」
 そう言うとゾロはルフィの両肩を掴んで前へと押し出す。
 勢いに押されてちょっとよろけてからルフィは踏みとどまり。
 そして右手を挙げると笑った。

 いっそ清々しい程の、曇りの欠片も無い笑顔で。



「ただいま、とーちゃん!!!」



 あっけらかんと言い放たれた、この場に余りにも似つかわしくない挨拶に。
 机に頭を打ち付ける者、椅子からずり落ちる者、顎を落としてしまった者、完全に石化する者、怒りからか泡を噴いて倒れそうになる者など、反応は様々で。
 モーガンは白目を剥く寸前で全身を怒りに震わせ。
 イガラムはひっくり返りそうになるのを辛うじて踏みとどまり。
 コブラも椅子から滑り落ちるという失態からプライドを総動員して逃れていた。

 ルフィは笑顔のまま。


 その後ろでゾロは独り、笑いを噛み殺していた。











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